~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-151)
香世は一件の決着をつけるべく桜井に連絡を取った。事前に武馬が言い含めて頼んでおいたよう時刻の念押しと、その日一度でことをすますべく間違いなくひき替えにあの証書を受け取りたいと。
当日九時半、「川北」の奥座敷に香世と明子は桜井を待って坐っていた。香世の懐には辰川から借り出した一千万円の小切手がある。流石に二人の表情は固く青ざめている。「川北」は彼の手に渡らなくともいずれにしろ二人が、いや母のえい子も含めて親子三人が彼の姦策かんさくに破れたことに間違いはないのだから。
時計の針が時を刻んでいくにつれ、明子はますます唇を噛みしめ、彼女の体の内で段々に血がたぎり出した。せめて一言、彼の胸を刺す言葉を一緒に返してやりたい。
それを感じてかたしなめるように、
「明ちゃん、もう今になってあの男を前にさわぐのは止しましょね」
同じように青ざめた顔で香世は言った。自分と比べ、店を実際にやって来た姉の彼女の方がはるかにつらい心中でいることを明子はその一言で理解したと思った。
その頃、「川北」の並んだ小路に一寸変わったものがあった。変わったと言ってもそれをのぞけば後は時折芸者が通い、遠い三味線の音と横づけされた自動車というだけの、ひっそりした赤坂の裏通りだ。
ただその中に、他所よそ ではありきたりだが、日頃はこの路地では見かけぬ屋台のおでん屋が止まっていた。「川北」の玄関が見える斜め前だ。
さらに気をつければ、鉢巻きに前掛で、その屋台を引っぱっているのが赤坂では人こそ知らね、横浜では和久組の新代和久ひろしだ。小さい屋台を満員に、中でおでんを食っている男たちの顔も見たようだ。
「親分、お代わり。どうもだしが一寸塩っ辛いみれえですぜ」
言った男角田に、
「贅沢言うな」
横から文句を言ったのははん天姿にすっかり大工か畳屋といった風の鬼面の辰だ。一番端で、楊枝ようじをくわえなから手酌てじゃくで一杯やっているのは川内伴治。
その横のトヨペットを無駄口をききながら夜もみがいている熱心なおかかえの運転手と見た二人がこれも組の中堅常川に大林だった。
九時半一寸前。
「こんにゃくに大根くれ」
下駄をつっかけ、ズボンにYシャツで武馬が屋台へくぐった。
出された皿に手はつけず、武馬が腕の時計を覗く。
その時、屋台の外にいた運転手の常川が口笛を吹いた。
「来たよ、来ました」
伴治が楊枝をくわえたまま唄うように節をつけて言う。
桜井を乗せた車が「北川」の玄関へさしかかる前、止まっていたトヨペットが走り出しノックしたまま玄関の斜め前で止まってしまった。常川が急いで走り出して首を傾けボンネットを開ける。と同時屋台の中で何か大声が聞えて屋台がずるずる動きだした。桜井の車は行方をはばまれた形で仕方なく玄関の少し手前で止まった。
桜井が車から下りた。屋台でもののこわれる音がし男が四人大声で怒鳴り合いながら走り出た。
桜井が眉をひそめてたじろぐ間もなく、走り出て掴み合った二人がそのまま桜井に突き当たった。よろけた桜井を仲裁にかかっていた男が慌てて抱いて支えた。その甲斐もなく、もう一人がふり廻す道具箱を避けたはずみに桜井は足がもつれて尻もちをついたのだ。実際は支えるふりをしながたはずみを見越して伴治が足をかけた。
桜井が何か叫ぶ間もなくとっくみ合ったまま辰川と角田がその上へ重なって倒れた。
「馬鹿もの!」
桜井が怒鳴ると、
「なんだと、この野郎 ──」
酔っ払ったふりの鬼面が桜井にからみかかる。
「まあまあ」
とかなんとか言って間に立つ伴治を押しのけようとしてようやく桜井の運転手がかばうように辰の前へ立ちふさがった。
「野郎、待て!」
逃げ出した角田を辰が叫んで追いかける。
「おい、もう止さねえか。どうも失礼しやした」
言って仲裁の伴治が二人の後を追いかけて姿を消した。
「畜生、代を払わずにいきゃがった。食い逃げめ、待たねえか」
和久が怒鳴って屋台を引いて駈け出す。
野次馬然と見ている武馬や常川たちの前で精一杯威勢をつくとうと、まゆをしかめ唇をゆがめながら上衣の泥を払い払い桜井は「川北」の玄関に消えた。その途端、常川の車はエンジンをかけて始動しどこかへ走り去った。
2022/07/10
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