~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-152)
座敷へ入り、ぶすっとしたまま何も言わず桜井は出されたおしぼりを使う。転んだ拍子にの皮を少しすりむいている。指についた泥を払いながら、
「けしからん」
桜井はうなった。
香世と明子はただだまって彼を眺めている。
「玄関の近くになんであんなものを止めさせるのだ」
「は?」
問い返す香世に、
「もういい。それより金は作っただろうな」
恥も知らず威嚇するように言った。
「はい、ここに」
「どれ」
「その前にあの証書を」
たしなめるように言う香世の頬の辺りが流石に震えていた。明子は唇を噛んでそれを見守り、tまらずに眼を伏せた。
運ばれた銚子ちょうしの酒を香世に注がせて空けると、勿体をつけるような手つきで懐の右ポケットに手を入れた。が、見守る二人の前で彼はふと眉をしかめ、思い直したように逆の手を左にさし入れた。
がしかめた眉の間がより嶮しくなると、もう一度右を探り、脱ぐように上着の前を拡げて中をさぐる手つきがせわしない。見る見るその顔が真赤になった。ぼんやり両手をたらすと、急に気がついたようにその手を握りしめ、
「畜生 ──」
力一杯前のテーブルを打った。
「や、やられた。あ奴ら!」
立ち上がりかけたが、
「き、きさまら企んだな」
唇の辺りがぶるぶる震えている。
「なにをです?」
二人はただ桜井の顔をまじまじ眺めている。
「スリだ、泥棒だ、う、運転手を呼べ、い、いや警察だ」
「泥棒?」
「ポケットのものを、みんな、あ、あの手帳まで」
言った後何故か急にその顔色が青ざめた。
そのまま何を言っていいかわからぬよう、桜井は中腰で立ったまま怒りにまかせぶるぶる震えている。
「あの、お客さまの運転手の方がなにか ──」
女中がのぞいて言う。
立ち上がり走るように玄関へ出た桜井に、
「も、申し訳ございません。先ほどの喧嘩騒ぎの最中に車の中のお鞄を盗まれました」
「な、なにいっ、鞄を」
「はい」
とひれ伏す運転手へ、
「ば、馬鹿あっ!」
怒鳴った声が半分泣いていた。
訳のわからぬまま桜井を追って出た香世と明子に、
「あの、女将おかみさんにお電話ですが」
女中が後から言った。
帳場へつながせた電話に、
「香世さんですか」
声が言った。
「武馬です。桜井の奴、慌てているでしょう」
「ど、どうして」
「訳はどうでもいい。知らん顔をしてらしゃい。僕らの大博打が当たりましたよ。もうあの男に一文の金も払うことはない。元々それが当り前なんだ。いいですね、わかりましたね」
「い、いまどちらに」
「どこでもいい、いずれ明日。とにかく桜井はそのまま放っときなさい。警察でもなんでも呼ばせておけばいい。尤も泥棒が自分で警察を呼ぶなら丁度いい。今夜はゆっくりお休みなさい」
ぼうっとしている香世の耳に武馬が笑っていた。
2022/07/11
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