~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-154)
翌日、武馬は和久と一緒に証文を持って「川北」に行った。伴治を誘ったが彼はどうしても遠慮してやって来ない。
いきさつがせぬまま二人を迎えたが、武馬の出した証書うぃ見て流石さすが香世も明子も声を上げた。
「まあまあ、この訳は訊かずに、無茶ではないがそれでも大分危ない橋を渡ったんだ。とにかくそれさえあれば向うもどう文句も言えないはずです」
受け取り、おし頂きながら、
「有りがとうございます。何と言っていいやら」
香世は畳に両掌りょうてをつく。
「そんな他人行儀はよして下さい。とにかく賭けが当たって本当によかった。矢張りついていたんです。ついていたと言うより、元々正しい方が矢張り勝つということなのかな」

翌日、武馬は二人と一緒に辰川親分に家へ行った。
座敷へ通された三人に、親分は出て来ると、
「話はうまくすんだかね」
「はい ──」
と手をつくだけの香世に代わって、
「それが、この前申し上げたように、万が一のその一つが当たって、拝借したものを用立てさせて頂かずにすんだのです」
「ほう、どうやって」
武馬は香世たちの前で初めて、ことのいきさつについて話した。二人は仰天したような表情で聞いている。親分は大声で笑い出した。
「そいつあいい、そいつあ面白い。なるほど鷹の伴治といや聞いたことがある。武馬さん、あんたはいろいろ面白い人間を知ってなさるねえ。それもあんたの人徳てえみんだ。こつあ近頃にないいい話だ」
膝を打つ親分は、いつまでも太い体をゆすりながら顔を真赤にして笑いつづけた。
小切手を親分がその手へ収めたのを見て、
「実は改めてお願いがあるのですが」
香世が言った。
「なんです」
「親分に改めて『川北』の店を買って頂きたいのでございます」
「ほう、そりゃまた何故だ」
「昨夜妹とも話し合ったのですが、私たち矢張りあの商売は止めようと思います。母にはああした世界の中で育てられて来ましたが、今度のことがあって尚、私たちの住みたくない世界だということがはっきりわかりました。『川北』を手離した元手で、何か新しい商売を、例えばもっと普通の、私たちと同じような人たちをお客さまに出来るレストランか何かをやろうかと思っております。母も決してそれを嫌ってはくれないと思うのです」
「それはいい」
思わず武馬も言った。
「僕も賛成だ。あなた方が、あなた方らしくびていくために今の世界は決して適当なものじゃないと僕も思います。親分、僕からも改めて是非お願いします」
「よし、引き受けよう。どうせ一度請け合ったことだ。買いものが『川北』ならば私にも異存はない。あなたたちのやるその新しい商売の方のお世話も私で出来ることなら考えてあげよう」

赤坂へ帰り、三人は初めて向い合いながら一緒に夕飯をとった。しみじみとした安らぎがみんなの胸の内にあった。先のことを話し合うにつれ香世は誰よりもはしゃいでいた。
「今日は私たちの記念日だわ。私たちの新しい門出の日ですもの。武馬さん、私たちを踏み切らせてくれたことに本当に感謝するわ」
眼をうるませて言う香世の表情に真情がこもっていた。
「こうと決まれば、もうひと時でも早くこの店を出ていきたい」
日頃の香世に似ず、遠足に向う瞳を輝かせながら彼女はくり返した。
2022/07/13
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