~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-155)
やがて辰川と香世たちとの間に「北川」の売却についての取り決めが行われた。その金額を元にして香世は明子と二人で目安の立つ新しい仕事の計画にかかり出した。武馬も相談を受け、新商売は当初の思いつき通り今までの商売と筋の通ったレストランがよかろうということになった。幸い、その道では経験の長い板前と女中頭が二人と一緒に新商売へ道連れすると言ってくれている。計画を慎重に進め成功を果すために辰川親分は「川北」の譲り渡しについてその年一杯の期限を置いてくれた。
時折顔を合わせる香世も事件の頃とは違った顔色になった。
「計画の先の先を考えると子供みたいに気持がはずむのよ」
武馬を見る度に彼女は言った。
「そんなことを言ったってレストランにやって来る客にもごろつきやぬすはいますよ。僕だって時々ただで食べに行こうと思っている」
かんじんの証文を抜かれた桜井はその後何も言って来ない。ことが完全に落着したのを見て武馬は故郷の達之助に報告の手紙を書いた。心配せぬよう、いきさつの前に結末を先に話して。
その手紙を達之助がどんな表情で読むか武馬は想像した。自分が父の遠くから期待に添っていることを改めて感じ直し彼は幸せだった。香世たちの転業を誰よりも喜ぶのは達之助かも知れない。

暫くして学校で和久がにやにおや笑いながら武馬をつかまえて、
「おい、俺が預りぱなっしだった桜井から抜いた書類や手帳な、あの用途がやっとわかったよ」
「用途?」
「そう。実は辰川親分の手を通してあの書類が何かさぐりを入れてもらっていた。ところがこいつがこいつが旨くいきゃ、『川北』のっとりどころじゃない、あいつが『川北』をおどして取り立てようとしたぐらいのおとしまえは出させられそうだ。実際悪い奴だ、なんでもあの男が乗っ取りをねらっている会社の株式に関して不正な操作の証拠になる書類らしい。『川北』の姉妹の新しい門出に、あの男からは花輪ぐらいの進呈ではすまないからな」
「それを誰がやる」
「まかしておけ、じゃの道はへびで、余り面目ある話じゃないが、やくざにもいろいろいてね。なに、おどしにピストルを射ったりする野暮なものじゃない。ちゃんと商売をして帰って来るよ。他の人間が相手なら俺もすすめないが、相手が相手だ。辰川の親分も知らん顔で眼をつむっていたよ」
「ふーむ」
「それに桜井はきっと泣きっ面だぜ。その話にけりがついて野郎が金を出した後で、あの手紙を検察庁に送り届けてやる。俺の勘では控訴中の例の事件の新しいネタになることは間違いないね」
「踏んだり蹴ったりだな。流石は和久組の組長だ」
「嫌な褒め方するな。これも隠れた社会正義と言や言えるだろう。あんな奴はチャンスさえあれば徹底的に痛めつけてやりゃいいんだ。尤もあの男一人をやったところで政治の悪は変りもしまいが、しかしやらないよりはましだ。控訴で原審が引っくり返って有罪になれば、あの男もまず当分は浮び上れまい」
その瞬間だけ、和久は一寸すごい眼つきで言った。
「見てろ、レストラン『川北』の開店には俺があの桜井から、それこそでっかい花輪を出させてやる」
2022/07/14
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