~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-156)
三、四日して第一学期の成績が発表された。事務所で受け取った成績表を開く前に、流石武馬も手が震え動悸が打った。第二学期の試験というチャンスがないではないが、万が一、不可でもあれば今後の勉強に相当の努力を要する。試験がすんでしまった今、ふり返って見て努力足らずではあったが、なんとなく案外やれたんじゃないかという気がしないでもなかったのだが。
辺りに人気のない校庭の立木の下で、心に気合きあいをかけて成績表を開いた。優と良という字がごちゃごちゃに並んでいる。その中に可が一つ。不可はない。思わず歎息が出る。出来たと思った筈の数学が可で、山がはずれたフランス語のひとつがそれでも良だ。
“ま、成績というのはこんなもんだ”
一人で合点した。故郷へ成績を知らせる手紙に一つの可だけはとりあえずはぶいておくことにした。
部屋へ行きかかった時。門の方から事務室のある建物へ向かって来る人間に気づいた。背の高い男が、松葉杖をついている。杉だ。
目指すものに向かって、彼はなれぬ手つきで松葉杖をあやつりながら、一歩一歩、細長い体を運ぶように歩いて来る。成績表を受け取りに来たに違いない。駈け寄った武馬に頷くと、
「成績を見に」
緊張した表情で言った。
「お父さんは」
黙って首を振る。
「一人でかい」
「試験を受けたのは僕なんだからね」
ゆっくりと微笑った。
「もうなんとか大丈夫なんだ。尤も今日初めて歩いて見たんだが」
「成績は余り気にしない方がいいぜ。無理な条件で受けたんだから」
杉は黙ってうなずきそのまま建物の階段を上がりだした。余っぽどついていこうと思ったがそれもおせっかいに思えて外で待った。階段を上って中へ消えていく杉の後姿は心なしか緊張して見える。
しばらくして、同じ松葉杖が玄関に現われた。緊張の表情は消えている。杉は捜すように武馬を見た。問い返す表情の武馬へ、杉は一寸はにかんだように笑った。武馬は安心した。
「どうだった。良かったらしいね」
「君にもすっかり心配をかけたけど、お蔭でなんとか」
「不可かはないか」
「なかった」
杉は松葉杖をついた右手に持ったままの成績表を黙ってさし出す。武馬は手に取って開いて見た。自分の時とは違った別の歎息が思わずもれた。成績表の小さなマス目に、優という字だけが一直線に並んでいた。その中にたった一つ、良という字が申し訳なさそうに記されてある。
「凄いじゃねえか」
杉は黙ったまま成績表をポケットにしまうと、
「僕はやるよ。やっと自身のようなものが戻って来た。足さえ直れば、秋には投げて見せる」
「その前に、僕は君に果さなくっちゃならない約束がある。いつか一晩、体をけてくれ」
杉は問い返すような眼でじっと武馬を見つめた。

“君を一人前の男にしてやる”
と胸を叩いて言いたかったが、その台詞せりふがどうにも板につきそうでないので止めた。
“お師匠さんの言ったいい家というのは何処かな”
想い出したように考えた。するとなぜだか頬が紅くなった。その武馬を見つめながら、同じように杉の頬もぽっと紅くなった。
「やれよ、投げろよ。いろいろな人が君を待ってるんだ」

2022/07/15
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