~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-158)
その日がやって来た。よいの口八時半、待ち合わせていた新宿駅のホームから杉を車で浜町へ連れていく。日曜の浜町の夜は静だ。そんな場所は全く知らぬのか、通された家の小粋な作りを見ても杉はせいぜい料理屋ぐらいにしか感じていない。それでも学生の武馬がそんなところへ案内したことに矢張り杉は不安そうな顔で武馬を見た。出て来たのも女将一人で、気づかってか女中の姿も見せない。
杉を正面に坐らせ、
「なにも言わず、なにも考えずここでこのまま後二十分待っていてくれ。いいな、頼むぜ」
言って武馬はまた立ち上がった。今夜の雪葉は芸者として来るのではない。杉の友人、杉の愛する一人のただの女として来るのだから、彼女を遠出の芸者としてここへ呼びつける訳にはいくまいと武馬も気を利かした。座敷をたちながら何故かいない間に杉が逃げ出してしまいそうな気がし、女将に気をつけてくれるように言い置きして出た。
雪葉は約束通り銀座の喫茶店で待っていた。彼を迎えた表情が緊張してか青白い。入って来たのが武馬一人なのを見てはっとし、顔の色が尚青くなる。それでいながら彼に促されると半ば拒むように身を震わせている。何かを怖れているようにも見える。彼女が予感して怖れてるものが、杉とのこれきりの別れではないかと思うと武馬も思わず胸をつかtれた。
止まった車を降りて玄関をくぐりかけ、雪葉は思わず戸惑いおびえたように武馬を見つめ直す。咎めるような表情さえあった。芸者の彼女にはすぐにその家の素姓が知れたのだろう。
「だまって僕にまかせて。彼はずっと待ってるんだ。とにかく逢うんですよ」
言いながら武馬はなぜかひどくむなしい気持だった。そういう相手が他人であるということにだろうか。雪葉は曳かれるように玄関を上がる。
階段を上がる途中で上の座敷から杉の笑い声が聞えて来る。大方女将が気を利かして相手をしてくれているのだろう。やって来る気配で座敷を去って、女将は上の廊下で二人とすれ違った。武馬の横で雪葉がますます身を固くしているのがわかる。
入って来た雪葉を杉は青ざめた固い表情のまま確かめるように一心に見つめていた。その唇が震えている。雪葉も全く同じ表情だ。間に坐って武馬もなんだか胸をしめつけられた。
「どうしたんだい、久しぶりなんだろう。互いになんとか言えよ」
言って見たが二人の表情は変わらない。
「お見舞い有りがとう」
やっとのように杉が言う。雪葉はあえぐように体で頷いた。二人が向い合った机の横に静坐すると、
「僕は君が怪我をした時、二人に二人の仲をこのまま僕に預けろと言ったが、あの時の気持としてはただ杉の体を助けて、なんとか肉体的にも精神的にも立ち直らせたいと思うだけで、一杯だったんです。その後になって、二人に言った言葉をどういう風に実行したらいいのか随分考えた。考えたと言っても、何も知らぬ僕には知れている。僕に出来るのは、せいぜい今夜、こうやって二人が久しぶりに会って誰も入らぬ二人だけの自由な時間を持つチャンスを作ることぐらいだ」
「有りがとう」
杉が頭を下げた。
「いや、ただ僕は、やっぱり二人のことは二人で話し合って決めるべきだと思う、というより他人にはそんなことわかりゃしない。ただ僕にわかるのは、君ら二人が現実に可能性の少ない恋愛をしているということだけだ。そういう状況の認識だけは出来るだけ冷静にしてそれに対する方法を賢明に君たち自身で決めて下さい。とにかく、君らにこういう時間は絶対に必要だったし、もしも二人がある決心をするにしても、その前に互いにかなえておくことがあったら ──」
武馬は顔が紅くなった。二人は気づかぬのかまだ青い顔をして聞いている。
「── あったら、それを今夜にあてて下さい」
武馬は早口になった。ようやく驚いたように雪葉が杉を見つめた。
「とにかく今夜一晩という時間が、僕から君らへの贈り物だ。大言した割に情けないがどうか勘弁してくれ。ただ僕は思うんだ。君らはもう何も話し合うことはないんじゃないかね。それは互いにもうわかりきってるんだろう。僕はただ必要な、なんていうか、あるいさぎよさのようなものを、今夜に固めたらいいんだ ──。ね、雪葉さん、そうだろう。つまり、今夜、君ら自身の手で君らの恋愛を忘れ得ぬ今という時代の美しい記念碑にして下さい」
武馬は立ち上がった。
「僕はこのまま失礼する。用事さえいいつけなきゃ、誰も来ない筈です。それじゃ」
二人が何か言おうとす前に部屋を出た。女将に改めてよろしく言って家を出た。車をと言われたが断り、大川端にそって歩いた。眼の前の大川に映った灯がやけに綺麗きれいに見えた。武馬は何故か明子のことを思い出した。知らぬ間に杉と自分を比べて見ていた。急に、今自分が座敷で一人勝手に、彼らに随分残酷なことを言って来たような気がして来た。
“まさか、また二人で死にゃしまいな”
振り返って見た眼に、二人の居る座敷の灯が見える。川っぺりの手すりに坐りながら、武馬は暫くの間それを眺めていた。それがそっと消されるのを願いながら。
2022/07/17
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