~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-159)
下宿に帰り、
「旨くいったかい」
お師匠さんに訊かれ、
「たぶん」
としか答えられない。
「頼りないねえ、とりもちてえのはそこまで見とどけて来るもんだよ」
「あの二人、どうなるんだろう」
「別れるのさ、きっぱり。そのためにじゃないか。それが結局互いの身のためだよ」
長ひばちに肘をつきながら頬杖に、
「いいねえ、なんにしても若いてえのは」
長い歎息でお師匠さんは言った。
その夜更け、武馬は紫雨の声で呼びおこされた。
「なんです、今頃」
枕元で時計が三時をさしている。
「電話だよ、あのお友だちから。杉さんていう。今時どうしたんだろう」
急いで駈け下りて受話器をとった。
「もしもし、杉です」
杉の声は先刻の様子と変わって張りがあった。
「今時分御免、でもかけて話したかったんだ」
「君、どこにいるんだ」
「虎の門だ」
「虎の門? 一体どうして」
「彼女を送って帰る途中だ」
「送って?」
「そう、有りがとう。改めて感謝する」
「有りがとうって、だって君 ──」
「僕たち直るだろう ──、いや、たち直ったよ。彼女もだ。君が僕らにために期待してくれたことは起こらなかった。それは、どうでもいいんだ。僕らは、これがどんなに無理なことかということを互いに理解し合ったよ。君が言ったように、僕らは互いの心の中に見事な美しい記念碑を作った。恐らく生涯、二度とこんな記念碑は建てられないだろう。僕らはそのことで満足している。僕らはそのことを互いに確かめ合った。満足なんだ。僕はこの記念碑を通り過ぎて歩いていくよ。幾度もふり返りながら、どこかへ、いや、どこかへじゃない。朝に向かってだ。もうじき夜が明けるだろう。その朝に向かって、僕は今一人で歩いていく。もう歩いていける。いけるんだ。有りがとう、心から感謝している。それじゃお休み」
言う間もなく、向うで切った。
横で問い正す表情のお師匠さんに、彼の言葉をそのまま伝えた。話しながら、武馬は何故か今、杉の」胸の内にあるものに心から共感できるような気がしていた。
それは多少ヒロイックで、悲愴な、しかしすがすがしい青春のある感動に違いない。それは決して胸の内に甘い感動ではなく、悲愴でストイックな痛みを刻み込むことだろう。しかしそれに耐えるだけのものを杉が持ったということを武馬は今信じていた。
「── そんな、折角の夜を」
「いいんです。それでいいんですよ。それでこそ杉も、雪葉さんも、互いに新しい何かへ踏み切っていけるんだ」
電話を切り、ボックスを出て歩いていく杉の後姿を想像した。言った通り夜更けの道をたった一人、近づいて来る朝に向かって口笛を吹きながら彼は帰っているに違いなかった。

三日して、学校で顔を合わせた時、二人はあの夜のことについてもう何も言わなかった。松葉杖をとり、かすかにびっこをひいて歩きながら、
「俺、明日から自分で練習を始めるよ」
とだけ杉は言った。
2022/07/17
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