~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-162)
後半、互いに攻撃法を変えはしたが結果は同じだった。
後半十分近く、相手のパントを東大がインターセプトし、拾ったボールが短いパスの後森の腕に渡った。慶応の素早いつぶしに、森がパントをあきらめ強力に突っ切ろうとしてルーズスクラムに巻き込まれた。
「森さあん!」
スタンドで一際ひときわ大きくリツ子が叫んだ。
ぶつかり合ったスクラムは激しくホイールし叩きつけられるように地面へ倒れた。ホイッスルが鳴った。ボールが転げ出し、みんなが立ち上がった。
が、最後に一人だけグラウンドに残ったまま起き上がらない選手がいる。着ているジャージは東大だ。離れかけたみんながかけ寄った。
かけ寄った武馬が抱き起こしても、森は歯を食いしばり眼をとじたまま動かない。腕だけがボールをかかえたような恰好かっこうでこわばっている。レフリーが役員席へ叫び、医者がかけつける。その医者が叫んで担架を呼ぶ。
「大丈夫ですか」
脳震盪のうしんとうだろう。多分大丈夫だと思うが」
言った医者の顔が少し緊張していた。
「畜生!」
情けなさと口惜しさで思わず言った武馬を、森を囲んだ輪の向い側にいた相手側の竜野が見返し、ゆっくりと微笑したのだ。
勿論、それは相手への心遣いと同情を込めた微笑だったに違いはない。しかし武馬はその微笑の内に、相手が勝者として自分へかけた憐憫れんびんと、優越感を感じ思わずかっとなった。
担架がグラウンドを横切りメインスタンドに向かっていく途中、
「東大フォワード森君、負傷して欠場します」
場内アナウンスが言った。その途端、叫び声を上げてスタンドからグラウンドへ飛び下り担架に向かって駈け出しとりすがった女があった。
リツ子だった。付き添った役員になだめられながら、リツ子はそのままスタンドの地下道へ消えていく。
「あれあの女じゃないか」
お師匠さんが目ざとく言った。
「ふーん、ご覧よ明子さん。女はあれでいいのさ。あれであの子はあの人をしとめるよ」
口調が先刻とは大分違っている。
武馬もグラウンドで半ば怪訝けぐんな表情でそれを見送っていた。
「おい、坂木、あれ夏休み合宿に来てた女だろう」
誰かが言う。
「らしいな」
リツ子が広美に習ってかどうか、森につきまとっていたのは知ってるが、その後がどうなっているかは知る由もない。森も何も言わずにいた。いや、そういえば夏休みの彼女たちの話題が出ると、照れくさそうに一人でにやにや笑っていた。こうして見るとただごとではない。初めての試合にいろいろなものを見せつけられ、武馬は暫くぼんやり突っ立たままでいた。
ホイッスルで試合が再開する。押され気味の上に一人を欠いて試合はますます苦しい。
する内、武馬は遂に慶応の竜野に二度正面からびつかった。夏から夢に見て来た出会いだったが、森のとむらい、先刻彼が見せたあの微笑いへの仕返しをと思う瞬間、二度ともあっと言う間に武馬の体は竜野のハンドオフとフェイントにかわされ地面へ転がっていた。
その度、スタンドでお師匠さんがたもとをぎりぎりと噛んだ。転がった武馬にもスタンドの二人がその瞬間どんな気持ちでいるかがよくわかった。惨めと言うよりは、武馬は自分自身に腹が立った。
「手もねえなあ東大なんて、まるで大人と子供だよ」
後の男たちがまた言う。今度はお師匠さんも言い返す声が出ない。
2022/07/18
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