~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-164)
紫雨師匠と明子は、痛いのも忘れ夢中で手を叩いた。
「いいねえ、いいねえ、どうだい武馬さんは。馬鹿だねえあの子は、あんなことをして大怪我をするじゃないの。でもいいねえ、よかったねえ、ああすっとした。だから男はいい」
夢中で喋るお師匠さんの言葉のつじつまも合わない。
「ああどうだい、これで胸がすっとした。どんなもんだい、ねえちょいと、今日のお客はこれを見に来たみたいなもんじゃないか」
後へふり返って言うお師匠さんへ、
「ああ、いいねえ。東大にも選手はいるんだねえ。お宅の武馬さんはいかせるよ」
後の客も文句は言えなかった。」
それから慶応が連続2トライを上げはしたが、守る東大にも闘士がよみがえり、試合そのものが前よりも緊張を増した。
そして試合終了三分前、こぼれ球を拾って走った主将をフォローして武馬は突っ込んだ。つぶし合い、苦し紛れに棒立ちになる彼へ、
「竹島さん!」
叫んだ武馬へ、両手で放り出したボールが真直ぐに戻った。抱き込んでバックし返って来る敵のフォワードに、オープンへパントに大きく蹴上げると見せて百八十度ターンし、味方がブロックした横を抜けてタッチに走った。流石に敵の守備が早く戻った。見る見る迫って来る相手へ、武馬は自分で意識せぬ内ににやりと笑っていた。その瞬間、相手側のその微笑の主と全く同じフェイントモーションに体が動いた。嘘のように軽くすかされ、「ありゃっ」叫び声を上げて相手はグランドへ転がった。
つづいて相手を、竜野のやる身をかわして引っ張りこむようなハンドオフで叩きつけた。真横から竜野が飛んで来るのが見えた。今までの敵と違って、その体が随分大きく見えた。懸命に逃げるように武馬はまた体ごとゴールへ転がり込んだ。スタンドよりも先に、味方が歓声を上げた。
お師匠さんは何も言わずに後へ振り返り胸を張って見せた。
「いいですよ、お宅の武馬さんとやらはなかなか」
言ってくれた後へ、
「どうも有りがとう」
紫雨は殊勝しゅしょうに頭を下げる。
仲間の称は耳に入らなかった。ただなんとかやれるだけやれたという満足が武馬の体中をしめつけ、彼は幸せだった。敗れはしたが、自分は自分なりに闘いつくしたという気持が彼の体の内に新しい自信と闘志をつちかってくれたのだ。
浴びるシャワーがたまらない。体中がようやく今になってほてって来る。
「ちわ」
声がし顔が覗いた。竜野だ。にやりと笑い、くわえていたレモンに指をつきたて器用に真っ二つに裂くと突き出す。
「疲れがすぐに抜けるぜ。ハーフタイムより今かじる方がよく効く」
受け取ったまま武馬は黙って頷きかぶりついた。互いにレモンを嚙りながら見合ったまま、二人はもう一度にやりと笑い合った。先刻の転倒でか、竜野は頬をすりむいている。手を上げ離れながら、
「お宅の今度の相手は」
「法政です」
「ああ、あすこならTBの島倉しまくらをマークするんだな。奴一人をつぶしていりゃ、お宅でもなんとかやれるよ。君がマークするんだな」
武馬が頷き返す前に背を向けて立ち去った。
2022/07/19
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