~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-165)
「森はどうしたろう」
「大丈夫、脳震盪だったらしい。念のために一、二日寝かしておいた方がいいそうだ」
マネージャーが言っている。
病院を訊き帰りがけ見舞いに寄るつもりでロッカーを出た。
「坂木さん」
広美が廊下に立っている。
「なんだ君か」
「私で悪くって。試合、あなただけ御機嫌でした」
「僕は今日は駄目だよ。森の見舞いに行くんだ」
「私も」
「なんで」
「だってリツ子が行ってるの。先刻も私の車で病院まで運んだのよ。一緒に病院まで届けてあげるわ」
「そうか、それじゃ他の奴も行くって言うから」
「駄目、あなただけ」
「なんで」
「なんでも、車の持ち主は私よ」
広美は彼の手を引いて玄関の方へどんどん歩き出す。
その手を放しかねるまま引きおろされるようにスタジアムの玄関口を出た時、
「武馬さん」
今度はお師匠さんだ。勿論その後に明子がいた。
「今日は見事でしたよ」
言葉では讃めたが紫雨師匠の眼が広美を、そして武馬を睨みつけている。

「さあ、今夜は帰って初試合のお祝いをしなきゃ」
うながすようにお師匠さんが言う。
「あら、森さんをお見舞いに行かないの。待ってるわよ」
そばから広美が言う。
「うん、実はお師匠さん、僕これから負傷した仲間を見舞いに行こうと思って」
「私の車でね」
「それじゃ私たちも御一緒にそこまで乗せていって頂こうかね。病院の玄関ででも待ってましょう」
袖を引く明子にかまわずお師匠さんが言う。
「ええ、それじゃ」
言った武馬に、
「お断りしますわ」
「どうしてです」
「とにかくよ。余計なものは積まないことにしていますの、私」
「余計なもの!」
たちまちお師匠さんがかっと来た。
「それじゃ僕も結構だ。僕はこちらと一緒に行から」
「そんなこと言ったって今頃車なんかなかなかありゃしんじゃいわよ」
「いいよ、そんなら歩いてでも行く。行きましょう」
二人をせきたてて歩き出した。
「そうだよ、それくらいにしないとあの性悪女性悪女しょうわるおんなからは離れられないよ。あんたも大変な女に見込まれたものだ」
お師匠さんは未だ憤慨いている。
スタジアムの前で車を捜したが広美の言った通りなかなか見つからない。通りまで出たが同じだ。その三人の姿を先輩の車に便乗した仲間が声をかけながら通り過ぎて行った。
いらいらしている三人の前へすっと広美の車が着いた。窓から顔を覗けて、
「どう、乗って行かない武馬さん。ここにこうしてても同じことだよ。あなた一人が遅刻になるわよ。森さんが怒ってるわよ、薄情って」
言われて通りに先に行っている連中が女連れで立っていた武馬のことを何と言っているか知れない。
「武馬さん、乗せて頂いていらっしゃいよ。私たち先に帰って待っていますから」
明子が言った。
「なにを言うのさ、この子は」
「いいじゃりませんか。同じことですもの。それに本当に、遅くなったらお友だちにも悪いわ」
「駄目駄目、そんなことを言ったら」
お師匠さんは言ったが、
「ね、いらっしゃい。どうぞお願いしますわ」
武馬を押し出しながら明子は広美に頭を下げた。
広美はなんとなし拍子抜けしたように頷いたがそれでも間髪入れずにドアを開けてよこす。
「それじゃ、病院からすぐに帰ります」
「まだそんなこと言ってる」
鼻の先で笑いながら広美が言った。
走り出した車へ紫雨師匠は、
畜生ちくしょう
言ったが明子へ向き直ると、
「あんたいいところあるよ。あれが内助の功ってものだ。それがわからなきゃ武馬さんもただの唐変木とうへんぼくだ」
2022/07/20
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