~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-166)
「乗せてしまえばこっちのもんだわ」
ハンドルを切りながら広美が言った。
「そんなこと言って病院には行ってくれるんだろうな」
「あんたの心がけ次第よ」
「冗談じゃない」
「あの子、あんたの何なの?」
「友だちさ」
「どういう友だちよ」
「だから友だちだよ」
「ふん、それじゃ言葉通りに解釈しとくわよ」
「どうぞ」
武馬は肩をすくめた。
「なかなか退ぎわが見事だったわね。それにしてもなによ、あの鬼婆あ。あれがあの子のお母さんなの。あんたも大変なものに見込まれてるわね」
「向うも同じことを言って」
「大きなお世話だ」
言った途端、広美の手が延びて武馬の手をとって握りしめた。
「なにをするんだ。しっかりハンドルを ──」
「平気よ」
両手がハンドルから外れて武馬の首に巻きつきかかった。そんp途端、横から自転車が ──。
「危ないっ!」
武馬の声と同時に広美はヤケみやいにブレーキを踏んだ。車がタイヤをきしませて急停止した瞬間、はずみをくらって武馬は前へ飛び出し額をしたたかフロントグラスに叩きつけた。
「あ痛っ!」
「御免なさい」
何か怒鳴って通り過ぎていく後の車にかまわず、額をおさえてひっくり返った武馬へかがみ込むと青くあざになった辺りへ、
「大したことないわよ」
言いながら広美は猛烈に接吻した。
たまげてね起き、
「き、きみは本当にひどい女だ。何されるかわかりゃしない」
武馬は思わず怒鳴った。
なにか言い返そうと向き直ったが、そのまま肩を落すと何も言わず広美はエンストした車のセルを入れる。
「急いでくれよ」
やけみたいに車は飛び出したが、外苑をぬけかけた時、突然ハンドルを切ると彼女は車を通行止めのある広い遊歩道路へ乗り入れた。
行楽の帰りの人たちは殆ど帰りつくし、辺りには、黄昏たそがれの中に夜を待つ二人連ればかりしかいない。
「どうしたんだ」
言う間もなく武馬の顔をはさみつけるように両掌がのびると首にまきつき、強引なアタックのように広美の体がのしかかって来た。あっという間にその唇が武馬の唇をとらえた。
「き、君いっ!」
言いかける武馬の唇をいやというほど噛んだ。
「あ痛い!」
という叫び声も一瞬口をふさがれて外に出ない。
次の瞬間やっと相手を跳ね飛ばしたが、
「な、なにをするんだ!」
叫んだが、
「好きなのおっ!」
負けずに広美が叫び返した。
「君は気狂いだ」
「気狂いでもなんでもいい、好きなんだから」
「御免だ!」
「あの子はただの友だちだって言ったじゃない」
「それとこれとは関係ない」
「あるわ、あるんでしょ」
「ない」
「じゃなぜ」
「僕あ君みたいな女は嫌だ。どいてくれ、一人で歩いて行く」
「いや!」
叫んだ途端広美は急に大声を上げて泣き出した。半分開いていた窓ガラスに、通りすがる二人連れが驚いた顔で覗き込んでいく。武馬も離れかね、手つかぬままなかば茫然と見守るよりすべがない。
2022/07/21
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