~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-167)
「ど、どうしたんだ一体」
やと訊いたが、
「好きなんだものおっ」
叫ぶようにくり返す彼女は武馬のひざで声を上げて泣くばかりだ。いささか大袈裟おおげさというよりは狂気に近く、武馬も手がつかない。
が、やっと顔を上げ、泣きじゃくりながら彼を見つめた。一応涙は本物らしく派手な化粧が流れ落ちその後の顔が急に今までと違って彼女の年齢相応に子供っぽくあどけなくさえ思える。武馬もようやく落着いた。
「一体どうしたというんだい」
「私、寂しいの」
「寂しい? それなら少しわかるような気がするけど」
「武馬さんが好き」
「それは困る」
「どうして」
「どうしてってまた同じことを」
広美はまた泣きじゃくった。
「私、さっき病院でリツ子を見てて尚うらやましくなっやの。あの人夢中で森さんにとりすがって看病してたわ。あの人初めて、一番あの人らしく、女らしく見えたわ。あの人、随分お友だちもあったけど、男の人といてあんなに見えたの今までなかった。森さんだってやっと気が付いて、リツ子に看取られながらしごく嬉しそうだったわ」
「一寸待ってくれ。あの二人はそんなのか」
「そうよ。夏以来ずっと、段々激しくよ。リツ子、パパにも話したらしいの。あそこのパパは元々叩き上げた人でしょ。森さんの家がなんだろうとかまやしないって言ったって。それの比べて、それに比べて私はちっともうまくいかないのよ」
広美はまた泣き出しそうになった。いつものポーズは何処どこへやら、一度涙を流すとからきし子供だ。
「君はちっともって ──」
「あなたよ、あなたのことよ」
「しかしそりゃ困る。第一君の一人勝手だ。きみのわがままだよ」
「そうよ、私がわがままなの。でも私どうしても武馬さんが好きなの。こんあの初めてなの。リツ子は旨く行ったのに私だけがどうして ──」
夕闇はますます濃く、時間は過ぎていくが武馬はなんとはなし広美を放り出しかねていた。迷惑ではあっても、広美が彼女の偽りのない心情を語っているのはよくわかった。
シートの中で身をにじりよせながら、拭った涙のついた手で彼女は武馬の手を握りしめる。どうしようもなく武馬はされるままにしておいた。
「私、自分が我ままなのはよくわかるの。出来るだけ直すようにするわ。でも私そうしないと寂しいんです。私、パパのおめかけの子なの。パパもママも気を使って育ててはくれたけど、パパは忙しいし、他に誰も本当に親身に話し合える人はいやしないんです。お友だちを沢山作ってみても、いつも私一人ぼっちだったわ。でもあなたと ──」
「わかったわかった」
先を言わせぬよう武馬は言った。
「君の心境はよくわかった。君に必要なのは心を割って話し合える友だちなんだろう。好きだとか愛するというのはそれから後のことだよ。君は今一番、自分を理解してくれる人が欲しいんだ。それにえているんだ。そうだろう」
広美はこっくりして頷いた。
「僕がその友だちになってあげる。そんな友だちなら他にも僕が紹介してあげる」
「本当!」
「本当だ。だがね、間違っちゃいけない。そういう友情をいきなり愛情と勘違いしちゃいけないんだ。そういう友だち同士の間で好きとか、愛するってことはそれからもっと先のことなんだよ。それはその時また話し合えばいいことだ。そういう友だちが増えて来れば、あるいは君は僕よりももっと君にふさわしい恋人を見つけられるだろう」
「いや、そんなの」
「そうじゃない。そんなことは今からわからない。第一、僕は君のことを今やっと少し知っただけじゃないか。聞いた限りでは、僕は君という人をよく理解出来た。これから先もっといろいろわかり合えることがあるだろう。僕だけじゃなくそんな友だちをもっと作れるよう僕も努力してあげる。さっき僕と一緒に居た女性だって二人とも君のいい友だちになれると思うよ」
「いやよ、あんなの」
「まいいや、とにかく今日のところは二人が改めて本当の友だちになる約束を交わそうよ。森のことは知らない。しかしあの二人が本当に愛し合うには彼らなりに機会と時間をかけて来たのだろうし、これから先もっともっとおうしなくちゃなるまいと思うな。あせって他人をうらやむのは結局自分を損なうことになるよ」
広美は武馬の眼を覗き込むようにして頷いた。
「さ、もう行こう。すっかり遅れちゃったじゃないか」
広美は素直に向き直り、ハンドルを持ち直した。
二人が病室に入るなり、
「遅いぞ。さっきあのまま帰ったのかと思った」
「どこをうろうろしてた」
帰ろうとしていたみんなから声が飛んだ。
森は新しいパジャマに着替えて寝かされている。枕元には見舞いの果物籠まである。パジャマも果物もみんなリツ子のやったことだろう。
「どうだい」
たずねた武馬へ、
「もう二、三日こうしていた方がいいんですって」
森の代わりに枕元に坐ったリツ子が答える。その態度が妙に板についているのに逆に武馬が照れた。
森もみんなももうそれに馴れたか平気でいる。森は怪我の割にはふさいでいない、というより幸せそうに見える。武馬はそんな彼を見て矢張り少々滑稽こっけいな気持になった。
見舞いの言葉の後、武馬はみんなへ正式に広美を紹介した。森がリツ子とこうなったのならば、自分以外に広美への候補者はみんなの中にいない筈もあるまい。
紹介された広美は殊勝しゅしょうに頭を下げる。そんんじゃ風情ふぜいはなかなか可愛らしかった。
送って行くと言うのを一度は断ったが、あまりそうしてまたすねられると面倒なので赤坂の下宿まで広美に送ってもらった。
「時々遊びに来ていい」
「ああ、いいよ」
いきがかり上そうは言ったが、
「でも、さっきの鬼婆あがいるぜ」
「かまやしない。あなたに用があるんだもの」
広美は言う。言葉の通りにやって来るだろう。武馬はその先のトラブルを考えてまた憂鬱になった。
2022/07/23
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