~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-168)
「お帰りなさい。おや、その唇どうしたの」
お師匠さんが目ざとい。
「試合でやったのですよ」
「そうかしらん、さっきはなかったようだけど」
「また傷が開いたんでしょう」
「随分遅かったじゃないか」
「ええいろいろ」
とは言ったが、いずれ言葉通り広美はやって来るだろうし、車の中のいきさつまではいかずとも、彼女の身の上について聞いた通りを二人に話した。
「いずれにしたって私あ嫌だよ。あんな娘あ。水島将左衛門か何か知らないけれど思い上がってるじゃないか」
「それが、泣かれて話を聞いてみるとあの子の気持もわかるんです。つまりシンは寂しい」
「何を言ってる。女の話にすぐほだされるのはあんたの悪い癖だよ。明子さん注意注意」
「いや、注意よりも、君にも友だちになって欲しいんだ」
明子は微笑したまま黙ってうなずいた。
「とにかくだよ、今日の試合の雄姿を見ただろう。こんな男を絶対人に渡しちゃいけませんよ」
駄目を押すようにお師匠さんは言った。
半月ほどして一通の手紙が届いた。差出人は杉の父親だ。文面に、
── 来たる十日の日曜日は愚息達也の誕生日に是非とも御来駕ごらいがを仰ぎ夕飯を共にしたく御招待を申し上げます。
今までも年々、子供の頃同様に息子の誕生日祝いを内々にもして来ましたが、今年は今までにも増して、本当に達也の新しい誕生に意味を込めて祝いたく思って居ります。誰にもまして貴方のおいどぉ家内愚息ともどもお待ちしております ──
とあった。
翌日、学校で会った杉も、なにかんだように笑いながら、
「是非来てくれよ。僕からも頼むように父に言われた。この年で誕生日の祝いなんて今さら恥ずかしいようなもんだけど、僕自身、今度の誕生日だけは自分で自分を祝ってやりたいような気がするんだ」
「わかるよ。是非うかがわせていただく」
武馬の笑った。
「時に、例の浜町の一件はお父さんには黙ってるんだろうね」
「いや、話した」
杉は歯を見せて笑った。
「親父には何もかも話したよ。互いに、何もかも話せて理解し合えるようになったんだ。僕らをそうさせてくれたのは君のお蔭だ」
「しかし、お父さん、何て言ってた。怒っちゃいなかったか」
「いや、ただ一寸驚いてた」
「そうか。とにかく僕にはあれだけの智恵しか浮ばなかったんだ」
「いや、親父は君が余り大人なんで驚いてたんだ」
武馬は思わず肩をすくめた。
「しかし、君はあれで本当によかったんだろうな、本当に自分を納得なっとくさせたんだろうな」
訊かれて杉は黙って歯を見せて笑い返したたけだった。
やがて並んで歩き出しながら、自分に向かって言うように、
「記念碑だよ。恋愛もその挫折ざせつも、なにもかも。僕は自分でそれを立派に建てて見せる。その自信を僕に与え直してくれたのは君だよ」
杉は言った。
2022/07/23
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