~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-169)
次の日曜日、武馬は片瀬の杉の家を訪ねた。バスは杉の家の前、つまり、杉脳病院前というバスストップで止まる。
大きな看板の指す方向へ歩くと、綺麗きれいなな松林の中を大きな道がつづく。その奥に美しい真白な病棟が三棟も見える。想像していたより大きな病院だ。
松林の中にも遠い潮の音がただよい、辺りはひっそりして寂しいくらいだ。東京の喧噪けんそうと比べると羨ましいほどの静けさで、なるほどこんな所で勉強すれば杉のような秀才も出そうに思われる。
正面の病院の受付で訊ね、裏へ廻って杉の私邸を訪ねた。瀟洒しょうしゃな家だ。
杉と並んで父親が出て来る。
「やあやあよく来て下さった。さ、どうぞ」
案内された応接間で一度会っただけの杉の母親が出て来、丁寧に礼を言う。改めて杉一家にこうして囲まれながら頭を下げられると武馬は照れる。その気配に、
「まあまあ、今日はゆっくりしていって下さい」
父親が言った。
お茶の後、
「坂木さんは哲也と比べていろいろなことを御存知のようだが、精神病院というのは初めてでしょう、後学のためにひとつ見学して見ませんか」
「はあ、でも気味の悪いものでしょう」
「はは気が弱い」
「一見の価値はあると思うよ」
杉もそばから言う。
「どうです」
「そ、それじゃ」
言われて立った。
明るい病棟だが、収容されている病人たちに病気のせいか、建物全体の印象は薄暗く陰惨に見える。病室の続いた廊下の入口にはめ込まれた鉄格子もぞっとさせる。
小さな覗き窓から眺めた部屋の中にはいろいろな狂人が住んでいた。覗かれる気配にふり返りにやにや笑う者。黙って天井てんじょうを眺めている者、壁に頭をもたれて泣いている者、さまざまだ。人によっては着せても着せてもかずに部屋の中で素っ裸で立っている。それが若い娘なのだから見物みものだ、というよりはそうなると何か無気味な獣にしか見えない。
更に次の部屋には、引き千切ちぎった布団やベッドのくずで丁度鳥の巣のような大きな容れものをこしらえその中に鳥のような恰好かっこうでうずくまっている男がいる。
「あれはね自分を鳥だと思い込んでいる男です。あの巣もそのつもりで作っている。一昨日から卵をかえすつもりでずっとあんな恰好をしているのですよ。狂人での珍しい狂人です。人間も狂えばここまで狂えるものだ」
院長が笑って説明する。
しかし武馬は矢張りぞっとした。みじめと言うか何と言うか、自分の今までの生活の中では全く想像することも出来ぬ世界を眼にしている思いだった。
「どうです、どう思います」
院長が顔を覗く。
「気の毒です、いや、もっと、何と言っていいか」
「いや、気の毒と言えばそうだが、人間もこうなってしまうと彼ら自身はそんな感情を持ってはいやしません。あの男にしても自分を鳥と思い込んで結構幸せなんでしょうな。ただ我々が見て不幸なのはあの男がそう思いながらも実際に鳥でないということだが」
「とにかく、これが人間のつきつまった、あの面での極限状態なんだよ。気味は悪いがそれを知ってることは悪いことじゃない。だから僕もすすめたのさ」
杉は言った。
「つまり我々も足元の板一枚はげば下はすぐ地獄ということなんだなあ」
「はは、いやいや、坂木さんのような人は絶対にそういうことはない。こうなる人間には殆ど総て、強固な意志というものがないんですよ」
院長は言った。
次の病棟の大部屋には、集団で大勢の患者かんじゃがいた。
眺めている間にその中に一人、他と少し変わった若い男がいるのに気づいた。ベッドの横の小さなテーブルに分厚く本を積み重ねて、何かしきりに一人言を言いながら一生懸命その本を読んでいる。頁をめくる手つきが馬鹿に早い。置いてある本はみんな難解な何かの専門書らしい。
「あれは?」
指さして訊ねた彼に、
「僕も下手へたすりゃああなるところだったのさ」
父親の代わって杉が言った。
「最近に入って来た患者だけど、勉強のしすぎでね。誰かに出し抜かれまいという脅迫感があいつをあんなにしちまったんだそうだ。あの男が入って来た時、まるで自分の身代わりみたいに思えてぞっとしたよ」
杉は笑って武馬と父をふり返った。
武馬は一瞬気にしたが、杉のその言葉には父をとがめるような調子はなかったし、父親がそれで傷つけられた様子は何処どこにもなかった。二人の間がもうそんなものでなく、彼自身が言っていた通りにもっと理解し結び合されたものになっていることを改めて武馬は感じていた。
「全く、自分の息子をここへ閉じ込めるのではかないませんからな」
2022/07/24
Next