~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-170)
病棟を出た後、武馬は矢張り妙な具合に神経が疲れた。
強い意志さえあればと仕儀の父は言ったが、生まれて初めて見た人間の極限状態に、武馬は自分が信じていた人間がいかにひ弱で、惨めなほどもろいものであるかを感じ、得も言われぬ感慨だった。
この先、自分の身にどんな事件が起ころうとも、杉の父が言ったように、ともかく強い意志でそれにぶつからなくてはという気持が改めてあった。
応接室に戻り武馬を覗きながら、
「はは、矢張り一寸ショックでしたかな」
杉の父は笑った。
「いえ、負け惜しみでなく、いいものを見せていただきました」
「或いは、人間というものについて幻滅し裏切られたような気持になられたかも知れないが、人間への正しい認識や愛情はそこから始まるのではないでしょうかな」
院長に言われ、武馬は頷いた。
まだ明るく熱いぐらいの陽ざしに輝いた庭の芝生を眺めながら、
「そうだ、今日はまだあれをやっておらんな。陰気なものをお見せした後だ、坂木さんに外でひとつあれを見てもらおう」
杉も大きく頷いた。
何事かわからず外の芝生にせかされて出た。
やがて庭の向うから出て来た杉親子は互いに上着を脱ぎシャツ一枚で足にはズックを履き、杉はグラブを、父親はミットを下げている。
「怪我の跡はもうすっかりいいが、怪我の間に体が変に固まってしまってね」
言いながら杉は父親の手を借りて柔軟体操を始めた。細長い息子の体を押し曲げながら、
ひそかにね、親子して始めているんですよ」
父親は明るく笑った。
「そうかあ、そうですか、よし」
思わず叫ぶように言い、武馬の上着を脱いだ。明るい陽ざしの下で、武馬の号令に合わせながら体操がつづいた。
「なるほど、坂木さんのようにあそこまで体が曲がらなきゃ駄目だな。まだまだ」
二人を見比べて医者らしく父親が言う。
体操の後、芝生の端と端に父子は立った。父親の構えたミットに向かって、杉は肩ならしのようにゆるやかなモーションでボールを投げ込む。流れる汗をかまわず、数が重なるにつれスピードが増した。
長身からふりかざして投げつける杉のそのフォームに、武馬はようやくかつての見覚えを感じていた。
ふとふり返ると、応接間のテラスで杉の母親が二人を眺めていた。武馬に認められ、微笑して奥へきびすを返しながら、彼女が思わず眼からこぼれかかったものを指の先でとめるのが見えた。
「坂木さん、バッターの位置に立ってみて下さい」
父親が言う。武馬は立って構えた。その胸元を、或いは、遠いコーナーを、白球がうなりをたてて過ぎミットへ鋭く乾いた音をたてた。その度、
「ストライク!」「ボール」
キャッチャーの父親が声を上げる。
「次はカーヴだ」
言いながら杉は投げつけた。すっぽ抜けた球が武馬めがけて飛んで来た。避けようとしたが間の合わず、ボールはしたたか脇っ腹に命中した。
武馬は声を上げてひっくり返った。
「御免!」
「大丈夫ですか!」
だ、大丈夫だ。け、けど、随分速いじゃないか」
「いや、まだまだ昔の四分の三くらいのスピードです」
首を横に振って父親が言った。
「で、でもえらくこたえた」
「いや、失礼。がまあ、直球はなんとかいけても、変化球はまだまだだな。相手は大学野球だ」
脇っ腹をおさえたままの武馬にかまわず、慎重な表情で院長は言う。
「で、いつマウンドに?」
「まだまだ、あせって二流のデビューをすることはない。機会はこの先充分にある」
その瞬間だけ杉の父は昔を思わせるような口調になった。
次の球から武馬は打者を敬遠して後に立って眺めた。練習の後、整理の体操と肩のマッサージに、杉の父は医者と父親の両方を思わせる入念さで息子の肩を弱気にいたわった。杉は任せきった表情だった。タオルで杉の額の汗を拭ってやりながら、院長はその倍も汗を額ににじませている。
そんな二人を眺めながら武馬は感動し、何故か達之助を思い出していた。達之助が懐かしかった。
父と子という素直な血のつながりが、これほど素直な感動を見るものの内に呼び起こすということに、武馬は初めて眼を見張る思いだった。
その夜、楽しい晩餐ばんさんの後、武馬は満たされた思いで東京へ帰った。杉について、自分がもう何を気づかい、何を憂うる必要も全くないということを完全に信じた。
2022/07/25
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