~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-171)
秋がふけ、学業二割運動その他八割ぐらいの割り合いで、大方一学期と変わらぬ二学期がすすんでいった。
リーグ戦の第三試合で武馬は慶応の竜野の忠告通り相手方の主将一人を徹底的にマークし、東大は僅か二点の差ではあったが法政を下した。その勝ち越しのトライも武馬がダイビングして挙げたのだ。その代償に、武馬は唇を裂いた。怪我だけは知らせず、スポーツの欄に出た試合経過と新人坂木讚の記事を同封して達之助に送った。
達之助からは大いに満足であるとの返事があった。武馬はそれだけ言ってやって、達之助が一度でも自分の試合を見に来ないというのが不服だった。が、その手紙の後、母親の悠子から達之助の健康について記した手紙が来た。手紙によれば夏来、どうも心臓の方が良くなく、その癖強がり言って療養に余り勉めず困る。お前からも忠告して欲しいとあった。ラグビーの試合を見に行くと言うのを、やっと止めているのだとも。
早速、速達で手紙を書いた。杉の家で見たこと、感じたことを記し、お父さんには絶対に無理をしてもらいたくない。誰のためでもなく、僕のために療養して下さい、と、掻きながら心配と同時に、武馬は少し甘えているような気持だった。
折り返し達之助から返事が来、悠子の手紙は大層大袈裟であること、達之助が武馬の試合をどうしても見に行けぬのは、人から以来を受けている仕事の話が片づかずにいるせいで、すみ次第、必ず一度試合を見に上京するとあった。
場合によっては一度神戸へ帰ろうかと思ってもいたが、武馬は父と母の手紙を両方とも半々に信用して帰京だけは中止した。
丁度その頃、辰川親分の口ききで、香世はお茶の水にレストランに好都合の売店舗を捜し出した。姉妹に言われて場所を見に行ったが、明大前の坂に面した店は、学生や若い顧客を相手のレストランにはうってつけだった。持ち主の都合で店の譲渡は来年ということになったが、姉妹は早速店の飾りつけの設計に没頭し出した。

ある日、学校で顔を合した武馬に杉が、
「今日の放課後、入部を申し込みにいくつもりだ」
白い歯で笑いかけた。あれからずっと家での練習と海岸をトレーニングにかかさずかけたと言うだけあった、杉の体は以前よりずっとひきしまって見える。
「投げるのか、いよいよ」
「いや、まだだ。今シーズンは言われても断る。ただ、もうそろそろ一緒に練習してカンを取り戻したいんだ」
「しかしあれならやれるんじゃないか」
そのシーズン、東大はまたしても連敗つづきでリーグのテールエンドだった。この分でいけば、結局毎度ながらビリに落着くことは間違いがない。まして今シーズンは慶応と立教が抜群に強く、弱い東大の存在はますます惨めに見えた。杉の加入は、みんな或いは、という期待を抱かすに違いはない。
「いや、まだまだだ。やるんなら矢張り親父の言ったように自分で納得出来るスタートをしたい。今年を捨てて、来年の春はきっとやってみせるよ」
気負った表情はなく、淡々と杉は言った。

本郷のグラウンドで練習しているナインに杉は黙って近づいていった。練習中のグラウンドへの侵入者を咎めようとした部員が、杉を認め驚いたように主将をふり返った。みんなが手を休め、ささやきながら見守った。
向い合った主将に、頭を下げると、
「僕を野球部に入れて下さい」
驚いたように主将は見返した。
「だって君は」
主将の横で、入学式に彼を引っぱって来たマネージャー格の三年生が言った。
「入れて頂けますか」
「それはかまわないが、君はあの時、医学部へ進んで一番になると ──」
「はい」
杉は頷いた。
「気が変わったんだろう。そうだよ、今までやって来た好きな野球を止められるもんじゃない」
「気は変わりません。僕は前から野球をやりたかった」
「それじゃ」
「野球をやっても、一番になれると思いますから」
ぼそりと杉は言った。
2022/07/25
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