~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-172)
山形姉妹がやるレストランの設計図が出来上がった。建物の一階を気軽なお客向きに、二階を個室に分けて少しこった料理の注文に応じることになった。店に入れる椅子やテーブルのデザインや注文もすみ、壁の色まで決まって後は年が明けて店が譲渡され次第その経営に当たるだけだ。
武馬にデザインの見取図を見せながら、そんな時だけは香世も料亭の女将おかみさんという様子を離れてはしゃいでさえ見えた。いよいよ料亭「川北」がRestaurant KAWAKITA になるのだ。
三人で新しい店について話し合っているところへ女中が夕刊を持って来て置いた。何気なく拡げた二面に、桜井元大臣が控訴のために再度勾留されたと出ている。検事側が新しい決め手を入手したとある。武馬はいつか和久が言っていたことを思い出した。武馬が指した記事を見、香世と明子は黙って顔を見合わせた。
「あの人も可哀想な人なのね」
憐れむように言った香世へ、
「悪人に可哀想ということはない。そんなことを言っているとまt誰かに非道い目にあうよ」
武馬にたしなめられ、
「そしたらまた武馬さんに助けてもらうわ」
香世は笑ったが、その笑顔も今となれば明るかった。
「もうこの人のことは忘れましょう」
明子が言った。言わなくとも新聞を見るまでみんな忘れていた。
翌日学校で和久に会った。武馬が言う前に、
「新聞見たろう」
和久はにやりとして笑う。
「検察庁も手が早いな。資料を渡してやったらすぐさまだ。しかし大いにいいさ、悪人撃つべし。時に約束通りレストラン・カワキタには俺から約束の花輪を出すよ。いろいろ準備の費用もいるだろうし、手筈のものが手に入ったから明日にでも俺から届けるよ」
言った通り、次の日和久は武馬と連れだって「川北」にいくと、香世の前に小切手を差し出した。三百万円とある。
「これをどうして」
驚いて訊く香世に、
「桜井の詫びのしるしですよ」
「あの人がまさか」
「なに、しろと言うだけじゃしやすまいから、こちらからそうさせてやっただけです。あの男が他にもやっている悪事を罰するのは結局、こんな方法が一番手っとり早い。詳しい理由は訊きになる必要はありません。これは僕の贈りものなどと言うより、断言して、あなた方のものなんです 」
「しかし、そうおっしゃられても頂くわけにはいきませんわ」
「それなら僕の花輪代だ。この分で新しい店に要るものを買わせましょう。いや、この分だけレストランにやって来る学生に、ただとは言わない、半値のもので食わしてやって下さい」
答えかねている香世に、
「さあ言う通り受け取って。和久組の顔をつぶすと後が怖いですよ」
にやりとした。
問うように武馬へふり返る香世へ、
「いいでしょう、もらっといて」
「でもそんな簡単に」
「その金の理由は僕が知っています」
頷いて見せた。
それに貰っとかないと、言った通り後でどんないやがらせをするかわからないからね」
「おいおい、非道いことを言う」
「川北」を後並んで歩きながら、
「しかし三百万とは豪勢な花輪代だな」
「なあに、和久組としては小さい小さい」
胸を張った後、
「しかしそれで俺も彼女には相当頼り甲斐のある男に思えただろうな」
何故か言葉の途中で急に早口になって言った。
「どういうことだ」
顔を見直す武馬に、
「いや、どういうことでもない」
ぶっきら棒に言った後、和久は一瞬だけ赤くなりかけると大きくせきをして横を向いた。武馬はやっと何かに気づいたような気持になった。全然、悪い気お持ちではなかった。が、
「頼り甲斐というより、凄腕すごうでと思ったろうさ」
「凄腕?」
「凄腕のやくざさ」
「やくざか」
その時だけ情けなさそうに言う。
「いや、香世さんも君といい辰川の親分といい、やくざはいい人ばかりだと思ってるだろうよ」
「そうかなあ」
和久は自信なさそうに言う。
「君の気持はわかるよ」
にやにやして武馬は言った。武馬に見つめられて慌てて何か言い返そうとしたが、また大きく咳をしただけだった。」
2022/07/26
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