~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-174)
「君に相談があるんだ」
考え込んだような表情で杉は言う。
眼の前の彼を見ながら武馬はもう一度、あの雪葉の後姿を思い出していた。しかし黙っていた。
杉にとっての雪葉は、あの明け方、朝に向かってひとり歩いて行った彼の胸の中にしまわれたきりでいいのだ。
「実は弱った」
「どうしたんだ」
「投げろと言われてるんだ」
「投げろ?」
「そう。試合でね。監督も主将ももう出来ると言う」
「実際に、自分で調子はどうなんだ」
「半分しか自身がない。遠ざかっていたせいかすぐにやらえちまいそうな気もする」
「弱気だろう」
「かも知れない。とにかく親父はまだまだと言うんだ。親父として見りゃ僕をみじめなスタートさせたくないから絶対によくならなきゃ、それこそ、昔以上にならなきゃ駄目だという。僕だって惨めに叩かれるのはいやだ。でも ──」
「でも?」
「── 試合はスタンドでいつも見て来たが、味方がさんざんやられるのを見ているとたまらない」
「そんなに駄目なのかね」
「駄目だね。みんなに悪いがあれじゃ烏合うごうの衆だ。特にピッチャーがなってない」
「それじゃ尚君が欲しいところだ」
「みんなに出てくれと言われ、親父は親父で、まだと言うと、間に入ってどうしていいかわからなくなる」」
「君は学校を愛しちゃいないのか。学校の名誉という奴を」
「愛してるさ。しかし今僕が出てもおそらく焼け石に水だろう。それにね、大選手には大選手としての自尊心があるよ」
杉は昂然と言った。
「それが下手なスタートで傷つけられりゃ、来春になっても駄目だろう」
「なるほど、そんなもんかね。ともかくも君はつてのヒーローだからな」
「いや、他人の眼よりも、僕自身の問題なんだよ」
「そりゃそうだ」
「しかし、しかし僕は出たい。というよりも黙って見ちゃいられないんだ。出なきゃいかんような気がするんだ」
駄々をこねるように杉は言った。
「じゃいったいどうするんだ」
「それを君に訊きたい」
「そりゃ僕にはわからんよ」
「もう迷うのは沢山なんだ。君が決めてくれ」
「馬鹿言え、大選手の前途をおれみたいな素人がそう簡単に決められるもんか」
「しかし頼むよ。君なら僕は従う」
「その前にだよ、冷静に見て調子はどうなんだ。どれぐらいの出来ばえなんだ」
「わからない。相手は高校と違うし、それに今の東大の選手相手の練習では高校以下だからな」
「さあ、しかし怪我の後体重が増えたせいか、球が重くはなった」
「ともかく、ともかくだよ、僕の無責任な予想、というより、予感だがね、君があの怪我で助かったのは奇蹟に近いんだ。それに回復だって異常に早い。君には、或いはもう一度奇蹟が望めるんじゃないかね」
「駄目だ、野球は奇蹟では勝てないよ。冷静な計算だ」
「しかしその計算以上の者に今君は頼りたいんだろう」
「うん」
杉は素直に頷いてまた考え込んだ。
「僕が君のお父さんを説得するなんてことは意味がないよ。このことは君が自分で決めて、自分でお父さんを納得させることだ」
二人は暫くの間黙っていた。やがて武馬は思い切ったように言った。
「僕は思うが、確かにそれは選手として君自身の自尊心の問題かも知れない。それも大事なことだろう。僕はそう華々しい過去もないし、第一君のようにいわゆる選ばれた優れた人間でもない。だからかも知れないが、君の言っていることは君のそういう過去が知らぬ間に作った我ままじゃないのかな。君だってそれを感じてるんだ。だから、スタンドで見ていていても立ってもいられず、ここで矢張り出なくてはいけないのじゃないかという気になるんだ。そういやって投げずに自らの自尊心を守ることと、たとい敗れても味方の為にボールを握って投げたという満足、それは結果として無駄に終わった犠牲かもしれなくても、矢張り、男の意地のようなものだぜ。それもまた、自尊心と同じように、君自身の問題だぜ」
「うーむ」
杉はうなったままでいる。
「失敬な言い方をすればさね、君は一生野球をやるつもりじゃあるまい。野球が君の一生の仕事じゃあるまい。僕は君がたとえば今、杉という名投手をつぶしたとしても、それが君自身納得のいくことであればそれでいいんじゃないか。君が一生をかけてやる、もっと甲斐のある仕事は必ず別にある筈だ」
杉は黙って唇を噛んだ。
「ともかくさ、それは自分で決めるんだな。僕にはわからない。君のお父さんにだってわかりゃしないことだ」
「わかった」
「どうする」
「それはまだわからない。もう少し考えさせてくれ」
杉はうつむいたまま遠ざかった。
武馬はただ止まったままその背を見送っていた。つて図書館の中で、或いは野球グラウンドの脇で見た、青ざめて考え込んでいた杉の姿を武馬は思い出していた。しかしあの時と比べれば、今杉を捉えている悩みはずっと前進的なものに違いなないのだが。
2022/07/29
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