~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-175)
一週間たち、東大は強敵、立教に惨敗した。予想通りの惨敗で、無敵を誇る立教の強打は、次々に出て来る非力な東大投手をフリーバッティングより容易に打ち込み、実に二十八安打、十六点を挙げ、東大は六大学リーグ創始以来有数の惨敗ぶりを記録した。
杉の相談があって以来武馬は今まで関心の薄かった六大リーグの戦績に気をつけてい、その惨敗ぶりも新聞で読んだ。日頃、東大には何故か寛容な批評も、この日ばかりはさんざんにその惨敗ぶりを伝えていた。勝った立教の強さより、負けた東大の情けなさが叩かれてある。
同じ学校に学ぶ者として流石さすが武馬の胸も痛んだ。ラグビーの試合もない日曜のことで、せめて応援なりともと、入学式以来初めて神宮へ出かける決心をつけた。応援団の中で、秋空の下、入学式以来、校歌を声一杯唄うのはさぞ気持がいいに違いない。
お師匠さんと明子を誘って出た。
「武馬さんの出ない試合じゃあねえ。東大はどうせまた負けるんだろうね」
お師匠さんまでが知っている。

東大の惨敗ぶりを見ようとしてか、球場は満員に近く混んでいる。東大側も、母校チームの不甲斐ない負けぶりに奮起、憤慨した先輩や学生たちで可成り大勢の観客だ。する内、今日の観客の殆どが、立教のスラッガー川田への期待で集まったことが知れた。川田は昨日の試合の二本ふくめて、すでにホームランのリーグタイ記録、十一本を放っている。このままでいると、今日の対東大第二戦で優にその記録を破る公算が大なのだ。

試合が始まった。
流石昨日の惨敗に恥じてか、東大は必死に守った。攻めるまでは手が廻らず、守るだけで手一杯といったところだ。立教は昨日の大勝にゆとりを持ったか、昨日ほど初回からすさまじい攻勢は見せずにいる。する内、四番の川田がものすごい当たりを左翼に飛ばし、それが間一髪ファウルとなった。球場が湧き上がった。インコーナーを怖れて投げたピッチャーの次の球を、待っていたとばかり川田は右翼へ綺麗に流してスリーベースとする。しかしその後続もなんとか危かい気なダブルプレーファウルフライでおさえた。
攻めている方が、相手をじらしながら楽しんでいるようにう見える。
が、思わぬ東大の堅守と思われた試合の状況も、五回に入ってにわかに崩れた。それまで相手を零に封じていたのが不思議だった。
ワンアウトの後、二番打者がすさまじいライナーでセンター前へ、ついで三番が三遊間を抜いてレフトへ、たちまち走者一、二塁、迎えるのは四番のスラッガー、今や先輩である名手長嶋をはるかに凌ぐという評判の川田だ。アナウンスの後の歓声が静まると無気味な沈黙。総じて全体の雰囲気かふぁして、ここで川田の長打が必ず出るのだという霊感のようなものが球場全体を支配していた。
川田自身もそれを信じているような身ぶりだ。東大の投手はその気配に完全に呑まれてしまった。顔色も青ざめただけでなく、用もないのにベンチや後のランナーばかり見る。
第一球、やっと投げたが、ボール。つづいて思い直してやっとほうった二球を引っぱり過ぎてポールの左五、六メートルをはるか場外へ飛び出る大ファウルだ。球場が湧き上った。川田は微笑さえ浮かべて構え直す。ボールを握り直したピッチャーはそのまま坐り込んでしまいそうに見えた。その後、東大のベンチからタイム。監督は投手をマウンドから下ろし、ブルペンに居るもう一人を呼び寄せる。呼ばれた新しい投手が監督に向かって首をかしげている。その顔ももう真青だ。と、監督がベンチをふり返った。何か話しながら一人の選手が出て来た。そのまま彼はマウンドに向かってゆっくり歩いて行く。ひょろ長い、一寸猫背な長身だ。
見ていて、武馬が、「あっ」と叫びかかった時、場内アナウンスが告げた。
「東大ピッチャー代わりまして杉君、杉君が入ります」
ざわざわと観客が反応した。
「杉? 杉って誰だ。そんな投手が東大にいたのか」
誰かが言っている。と、
「杉、杉いうたら、あの甲子園の杉やないか。あれ確か東大に入って、野球止めていたのと違うか」
「そうだ、杉だ、杉だ、湘南高校が優勝した時の」
「あの杉か!」
それはたちまちスタンドの中に拡がった。
マウンドの杉が規定の投球数を投げていく度、その騒ぎは段々大きくなっていき、審判がプレイ再開を叫んだ時、スタンドは一種想像のつかぬ興奮状態にあった。少なくとも、川田に向かってボールを投げる瞬間前、杉は完全にあの甲子園のヒーローに戻っていた。
杉に向かて構え直した川田を、何故かもう一度立教の監督が呼び戻して何かを囁いた。
不適な微笑で川田はボックスに戻った。マウンドで杉はポケットのハンカチでゆっくり眼鏡を拭いていた。
審判の手の合図と共に、杉はゆっくり長身を構えてセットポジションに入った。
万余の観客が固唾かたずを呑んだ。
武馬は思わず一瞬眼をつむった。目蓋まぶたの間で、川田の打球が白いアーチを描いて外野のスタンドを越えていくような気がする。武馬は祈った。
無表情に杉はふりかぶり第一球を投げた。ボールは、手許狂ってとんでもなく高いところへ飛んでいき、慌てて飛び上がったキャッチャーのミットにもさわらずダイレクトでバックネットへ叩きつけられた。
スタンドが湧いた。意外というか、失望、いや絶望を乗せた溜息と叫び声だ。ピッチャー暴投のパスボールに走者は二塁三塁と変わったのだ。
「しかしえらい速い球やったぜ」
武馬の後で通らしい一人が言った。
キャッチャーと話し合った杉がマウンドに戻ろりかけた時、武馬の眼の前下の東大ダッグアウトの屋根へ男が一人飛び乗って杉に向かって可にかを叫んだ。その声に杉がふり返った。
「あっ」と武馬も叫んだ。
2022/07/31
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