~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-176)
東大側のベンチの屋根へ駈け上がったのは間違いなく杉の父親だった。声につられて杉がベンチの方に戻りかかる。審判が驚いて注意した
杉の父は屋根の上から彼に向って尚何か叫んだ。杉は頷き返し、ゆっくりと微笑わらった。
審判にうながされ川田がボックスに入って構え直す。杉はマウンドで入念に手のすべりをとめている。確かめるように、自分の暴投で進んだ二塁三塁のランナーをふり返って見た。
セットポジションに入り、細長い体をゆっくりと構えると、第二球を投げた。手を離れた白球が白い矢のようにホームベースにかかり、と瞬間、一塁側のスタンドで見守る武馬の眼にその矢がかくりと折れたよう、白い球がぐいと沈んだ。川田のバットが力まかせにふり切られ、そのはずみに川田は後向きに一回転してぶっ倒れそうになった。
歓声が上った。川田はにやりと笑ってマウンドの杉を見直した。
「随分落ちたねえ、あの球!」
武馬の後で誰かが言っている。
杉が第三球を構えた時、東大の応援席に祈りに似たため息がもれた。バットを構え直した川田の姿に以前以上に自信があふれて見えるる。空振りを食らった後の川田はその仕返しに必ずと言っていいほど凄い当たりを飛ばすのだ。
杉は同じ速度で第三球を構えて、投げ。ふり上げられた長い腕がしなってふり下ろされた次の瞬間、手元を離れた白球は、万余の観衆が固唾を呑む一瞬の静寂の内に、構えたキャッチャーのミットに乾いて甲高い音をたてた。一瞬遅れて、川田の体が一回転して尻もちをついたのだ。審判の手が高々と上った。
神宮の球場を半ば支配していた六大学野球のヒーロー、鬼の川田は、思いがけぬ伏兵に、あっという間に敗れた。ベンチに戻りながら、改めて驚いたようにマウンドをふり返り、首を傾げる川田に球場が湧き上がり歓声というよりは、全く予想外の出来事に球場全体が怒号していた。
マウンドに立ち直し、杉はポケットのハンカチを取り出して額を拭うと遠いスタンドに向ってにっこり笑い直したのだ。
つづいて現われた打者は、一球をよやくチップし、後の二球をつづけて、川田よりももと遅れたタイミングで空振りして三振した。球が速すぎるのか、見ているものには打者が審判の手が上がってからバットをひり廻しているように見えた。
三人目の打者の第三球目の時、一塁側のベンチを一寸気にした仕種しぐさの杉の掌から速球がサードに飛び、あっというタイミングで走者が牽制けんせいに刺されてチェンジだった。
ベンチに入る前、杉はベンチの屋根の向うに向って笑いながら大きく頷いて見せた。
次の回の表、東大またも貧攻。
回の裏に入って杉がマウンドに歩き出すと新しい歓声が上がる。今や球場のヒーローは人を変えていた。現今で敏感な観客は、杉によってあえなくつぶされた川田にホームランを期待する代わりに、マウンドに立つ、このひょろ長いのっぽの伏兵に先刻のきりきり舞いの再演を熱望していた。
その期待はかなえられた。その回の打者二人たてつづけ鮮やかに三振に打ちとられた。広い球場に球を打つバットの音がはたと途絶えたきり、キャッチミットに叩き込まれる白球の音ばかりが響いた。三人目の打者は、胸元へくい込む速球に怖れをなして盲振りし、からくもそれが球に当たって平凡なファウルフライに倒れた。
バッターがボックスから前へ進むことなく、そのまますごすごとベンチへ送り返される度に観客は喝采した。ぐいと沈んでコーナーに決まるドロップと速球が打者を一人ずつなぎ倒していく度に杉の態度に段々余裕と自信が加わって来た。
回が進むにつれ、杉は嘗ての甲子園のヒーローに戻り、或いはそれをとうに凌いで神宮の新しい奇蹟になりつつあった。
立教の攻撃を杉の腕一本に任せ切って、東大はようやく貧しいながらも自らの攻撃に転じた。
杉という思わぬ伏兵の威力に度膽を抜かれ、あっけにとられたまま毎回の三者凡退に腐り切った立教の気配に乗じて、八回、フォアボールの後当り損ねのヒットが幸運に二本つづき、フルベースのチャンスが来た。考えて見ると東大が今年のリーグ戦で敵を攻めてフルベースにまで持ち込んだなぞ初めてのことだ。次の打者は流石さすがに固くなってか浅いライトフライで敗退、そしてこのチャンスに最後の打者として出て来たのが杉だった。
確かに敵の投手としては、ピッチングに関してこの怖るべき能力のある相手を打者に迎えてどう扱っていいのか逡巡の色が見えた。杉はマウンドに立つ時以上に猫背に長身のバットを引きずるようにしてボックスに入る。
2022/07/31
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