~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-177)
それでも立教の投手はワンボールの後遠いコーナーにドロップでつづけてツーストライクをとった。その球が投げ込まれる間中、杉は気のなさそうにバットをかつぐように構えて猫背のままのっそりと立っている。次の球は一球外してボール。杉は相変わらず黙って立っている。その様子は見るところ、始めっからバッティングには余り自信がなかったように見えた。
果たしてそう見くびったか、ピッチャーは次に大きく構えながら、シュートをかけたボールを力一杯杉の胸元をついて投げ込んだ。その瞬間、今まで傾いた電柱みたいに突っ立っているだけだった杉の体がびくりと動いた。バットが一閃いっせんし、力強いリストで引っぱるように叩かれたボールが三塁手の頭上へ飛んだ。三塁手の川田が渾身の力でジャンプしたが、ボールは糸を引いてその頭上を越し、外野線ぎりぎり一杯に落ちると更に大きく左へバウンドしたのだ。切れて飛んだ打球の方向に左翼手がもたついた。気狂いのように手を振り廻す東大の監督のサインに、これまた気狂いのように眼を吊り上げて東大の走者が二人頭からホームベースへ飛び込んだ。
スタンドが興奮に湧き上がった。杉は相変わらず二塁ベースの上で猫背にのっそり突っ立ちハンカチでひたいの辺りを拭いている。
九回、先頭打者に入った川田は、スラッガーの面目にかけてもと粘り抜き、手に余る速球をつづけて三つチップした挙句、懸河のドロップにのめるように泳いで討取られた。川田の敗退につづく二打者も勢いなく、遂に強敵立教を下して、今シーズン初めての東大のウィニングボールは音を立ててキャッチミットに叩き込まれたのだ。
「やったねえあの人! 雪葉もきっとどこかで見ているよ」
武馬の横で紫雨師匠がうめいた。
昨日の惨敗には顔をそむけた応援団は狂喜して立ち上がった。マウンドから帰って来る杉へ、興奮した選手や先輩が駈け寄って握手する。武馬の見守る前で杉の父親がベンチの屋根からグラウンドに飛び下り、ベンチの中からひったくるようにグラウンドコートを取り出すと、みんなに囲まれている杉へかばうように着せかけた。みんなにかまわず、親子はそのまま暫くの間互いに顔を見つめ合ったままでいた。
応援席の前に並んだナインに向かって、今日はシーズン初めて晴々と応援団長が勝利のエールの指揮に腕をふるう。武馬も明子と並んで立ち上がり、母校の初の勝利のために、いや、杉の勝利と彼の新しいスタートのために胸を張って勝ちどきの歌を歌いつづけた。杉は同じように猫背のままその歌を聞いている。歌いながら矢張り熱いものが胸の内に溢れた。心にかけた友人の華々しい、何よりも確かな自信にあふれた出発の姿を眼の辺りに見て武馬は幸福だった。
帰りがけ明子たちを待たしてロッカーへ寄って見た。日頃東大には縁のない写真班や新聞記者が控室を取り巻いている。」その真ん中で杉は父親に付き添われマッサージを受けながらうつむいたままはにかんだような声で答えている。
記者たちが囲みをといた後、隅に居る武馬を認めると、杉も父親も立ち上がって近づいた。
「よかった。お目でとう!」
「君のお蔭だ」
「本当に坂木さんのお蔭です」
「とんでもない。でも、矢張り投げてよかった。君のためにも学校のためにもね」
「僕も思い切りやってやっとさっぱりした。君のああ言われて今日やる気になったんだ。僕は矢は蘆ただ黙って見てはいられなかった」
「君は幸せな奴だよ。矢張り言っていた通り選ばれた奴だよ。それで君の名誉も学校の名誉も保たれたという訳だ」
「達也がそのことで悩んでいるのを私も知っていました。私もまだまだと思っていたのですが。余程、絶対にいかんと言おうとしながら、ずっと前にあなたに言われ、あなたとお約束したことを思い出して黙っていたんですよ。しかし、私はこれが矢張り黙ってでも投げそうな気はしていましたがね」
「親父はね、僕に黙って他の学校の奴らのバッティングを観察してデーターのメモを作ってくれてたんだ。それが今日の役に立った」
「あのベンチの屋根の上で叫んだのはそれですか」
「そう、そのメモの暗号だよ。川田はその通りに料理出来た」
「ははは」
杉の父親は楽しそうに笑った。その笑い顔が半分泣きそうに見えた。
「もうこれで僕は君を黙って安心して見ていられるな」
言った武馬へ、
「いやいや、どうぞこれからもお願いします」
杉の父は改めて頭を下げた。杉の父が側を離れた一寸の間、
「あの人も何処かでこれを知るだろうな。きっと僕と同じことを思っているぜ」
囁くように言った武馬を見つめ返すと、杉は遠い眼差しでゆっくりと頷いた。

新聞のスポーツ欄に登場する杉の写真を眺めながら武馬は人ごとでなく、自分の分身に近い感慨で、言った通り、今や真直ぐに歩き出した杉を心から祝福した。
2022/08/01
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