~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-179)
夜汽車がこんなにまどろこしいものかと思った。気ばかりがあせり、そのままいつまで走っても朝にならず、神戸へ着きはしないのではないかと思った。
一睡もせずに明かし、汽車を飛び下り電車を乗りついで家へ走った。未だ明け切れぬ朝の静寂しじまの中をたった一人靴音をたてて走りながら、静けさの中に響く自分の足音が急に不吉なものに感じられた。今、自分を永久に離れて行こうとしている、かけがえない、尊い、大切な、この世に類ないものを、出来ればこの足で追いつき、死を賭してもとりもどしたいと願った。
見馴れた家の路地を駈け込んだ時、眼の前に辺りで我が家の玄関の扉だけ開かれているのを見た。玄関の前は綺麗きれいに掃き清められてある。
あえいで駈け込んだ玄関に、青ざめた母の悠子が、昨夜からそうしていたように、一人きちんと正座して武馬を迎えていた。武馬は立ちすくんだままその眼を見つめた。
「お帰りなさい」
静かに悠子は言った。
「お父さんは!」
ゆっくりと首を振る悠子の前で、知らぬ間膝が折れ、食いしばった歯の奥から嗚咽おえつがもれた。
「ずっと待っていらしたわ」
「馬鹿な、なんで、何で間に合わなかったんだろう!」
「でもいいのよ、あんまり急ぎすぎたんですもの」
「そんなに悪かったの」
「頑固な頑張り屋さんだったわね。一昨日までは、お前の試合を見に行くつもりでいらしたのに」
悠子の気性を語るように、部屋の内はきちんと片づけられ、取り乱した跡はどこにも見られない。
達之助は座敷の中央に眠っていた。怖いものににじりよるように、武馬は顔にかけられた白布に触ってみた。出来れば、それを取ることによって、今自分に突きつけられた息苦しい過酷な現実を認めまいと思った。
達之助は薄く眼を閉じて睡っている。
「お父さん!」
武馬は呼んだ。
「お父さん?」
震える膝をこぶしで押さえつけ溢れかかる嗚咽をやっとこらえた。
「お父さん、唯今、唯今帰りました」
「おうそうか、帰ったか。試合はどうだ。今度の試合は見に行くぞ。俺が見ていると思ってぼやぼやするなよ」
そう言って笑う筈の達之助の唇はそのまま動かず、その睡りは今はきりなく遠く深かった。が、
「お父さん!」
武馬は同じようにまた叫んで見た。叫ぶ声が力を入れながらも段々喉の奥にかすれていく。
「お父さん、唯今帰りました」
握りしめたこぶしに悠子の手がそっと触れた。並んだまま二人はいつまでも達之助の寝顔に見入っていた。
やがて白布を元に戻すと、
「武馬さん」
悠子は呼んだ。仏壇の引き出しから取り出して手渡した封書に達之助の筆で、
「遺書、武馬殿」とある。
武馬は悠子の眼の前で封を切った。眼を走らせようとする彼へ、
「私にも声を上げて読んでちょうだい」
悠子は言った。頷き返し、持ち直してかかげた封書の巻紙を武馬は叱りつけて自分に聞かせるように声を上げて読んだ。
2022/08/03
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