~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-180)
遺書。父は汝に希まず。名をなすことをのぞまず。産をすことを希まず。権力を握ることを希まず。さかしき人間になることを希まず。己を欺きてまで功をとげることなかれ。
武馬、何でもいい、まず大きな人間になれ。自由な人間になれ。いつにあっても、自分のしたことを自ら納得出来る、己に誠実な人間になれ。妥協のない誠実さで自分と、他人に尽くす人間となれ。本当の青年になれ。そうしていつまでも青年でおれ。お前にそれだけのことを希む。
後はただ母を大切にせよ。気概のみ多く、能力少なかりし父は、妻と子に何も残すことあたわず。後はただ汝の誠心にのみ待つ。ただ形見として、否、汝への未だわが執着として分身たりし黒檀こくたんの杖を贈る。憂い有り心臆する時わが杖を握るべし。父は汝とともにあり。
武馬、武さんや、頑張れ。よろしく頼んだぞ。
最後の所に来て、武馬はたまらずに泣いた。涙を払うように、もう一度その行を読み直した。
「武馬、武さんや、頑張れ。よろしく頼んだぞ ──。だ、大丈夫です。僕は必ずやります!」
悠子も矢張り泣いていた。
武馬は立ち上がって言った。
「母さん、杖は」
杖は玄関の隅の傘入かさいれに差し入れてあった。武馬は黒く頑固なそに握りを握りしめてみた。
「僕は胸の中じゃいつもこの杖を握ってるんだ!」
握りしめながら思わずしの握りに頬ずりしていた。顔を上げると武馬は言った。
「お母さん、東京へ行こう! 僕と一緒に。僕がお父さんとの約束を守るためにみ、ね」
悠子は黙って頷き返した。
簡単ながらしめやかな葬式が出された。「川北」へは葬式の前に電報し、その後で電話した。年が明けて開く新しい店の準備もあり、達之助が杖に托して武馬と共にある以上、香世との対面もかなう筈だ。
「今度上京する時、僕はおふくろを連れていくよ」
「お待ちしているわ」
香世は言った。
「お母さまと御一緒に今度の店をやっていこうと、昨夜明子とも相談したんです」
「本当かい!」
「どうして。当り前のことじゃないの。一日も早く出ていらっしてちょうだい」
「有りがとう、姉さん」
電話では素直にその言葉が言えた。
「嬉しいわ」
遠く涙ぐんだ声で香世は答えた。
悠子と武馬は久し振りに二人きりの正月を迎えた。正月の五日、二人は神戸の家をたたんで出た。いく先は先ず、しもどけの京都東山ラクビー場だ。今度は正月恒例の全国大学ラグビートーナメントは京都で行われた。
ロッカールームで、僚友たちは手を拡げて武馬を迎えた。おくやみの後、
「矢張り少しやつれたな」
言った森に、
「なあに、今日の試合を見ていろ」
武馬は言い返した。
泥と汗にまみれ、霜のくずれて泥海と化したゴールに、その日、ダイビングで2トライをあげた武馬を、スタンドでは悠子と、その膝に抱かれた達之助の位牌いはいが見守っていた。
東大は善戦し三日目の準々決勝で関学に敗れた。
一泊し、翌日の夜行で二人は東京へ向った。次の日の正午に行われるレストラン「カワキタ」の店開きに、武馬も悠子も出席しなくてはならぬ。
香世の申し出と、彼女との間柄について武馬が初めて語った時、悠子は武馬を覗くように見つめたままゆっくり微笑して言ったのだ。
「驚きはしませんよ。お父さんのお書ききをあなたが読んでくれた時、この世でお父さんが何より愛してられたものが誰と誰だったかは改めてよくわかったのですもの。あなたの新しいお姉さんのお申し出を私も喜んで受けさせて頂くつもりよ」
「新しい娘のお母さんとしてもね」
悠子は黙って微笑わら った。
2022/08/03
Next