~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-26)
明子の口からそう聞いて、みんなは改めて彼女を見直した。なるほどこう思って見ると明子の顔は美人の評判高い噫「川北」の女将を間近に感じさせる。
誰も何も言わなかった。彼女の口からそう言われたことで、誰もが多少当惑しているように見えた。
明子は顔を上げたまま、
「私の家や、母についていろいろなことが言われています。それについて母は今わざと私に何も言い訳はしません。母のやっていることが悪いことかどうか身近にいる私にもよくわかりません。でも母は私や姉を育てるために、女の身一つで今まで必死にやって来たことだけは私にもわかります。その方法に誤りがあったとは私にも言えます。しかし母のような育ち方をした女にあれ以外のことが出来たかどうかはわからないのです。時間がたてば今のことも総てがはっきりして来ると思います。その時、私は子供として母を咎められる点については咎めようと思います。
でも私は母とは全く違ったタイプの人間です。自分でそう信じます。そうなるように私を育ててくれた母に、少なくともこのことだけは心から感謝しています」
彼女は言った。
「それから、私が桜井大臣と母との間の隠し子だなどと言うようなことが言われていますが、私自身の名誉のために申します。それは絶対に違います、私は私の父が誰か知っています ──」
明子の顔が青かった。しかしその瞬間非常に美しく見えた。
「その人と母とは恋愛し、私の父は亡くなりました。そうした点では、母は潔癖だったと思います。私はそのことで感謝しています。私がこんなことまでお話しするのは私がそんなことがらについて自分を自分で全部しめ出そうと思っているからです。私の育った世界は変わっていましたが、私はそんな世界とかかわりない、全く別の自由な女になりたいと思っています。母もそれを望んでくれました。そのために私はこの学校に参りました。どうかよろしくお願いいたします」
静かに礼をすると彼女は坐った。両隣の学生がまぶしそうに彼女を見守っていた。みんなはしんとしたままだった。
「よろしい」
繁岡氏が言った。
「あなたの希望は大いにいい。どうもこのクラスは面白い人ばかりだな」
言ったが繁岡氏の声は少々緊張して聞えた。
「はっきりした女だなあ」
武馬の近くの誰かが言った。
「ちょっと手強てごわいぜ」
「どう手強いんだ」
「そうって、全然だね」
武馬は、坐ったまま未だ青い頬をしている明子を思いきって見つめていた。明子は眼をふせたまま白い指を動かしてそっと前のぜんに箸をつけている。眺め直す度彼女は美しく、その居ずまいの内に、武馬は何故かある不可能というようなものを感じさえした。
武馬は目を伏せ、眼の前のビールのグラスを空けた。
気づくと彼の横で和久が同じように彼女をじっと見つめていた。その横顔は、先刻の彼女の発言に気おされた他の仲間たちと違って、彼女の居ずまいにこたえるような落ちついた表情だった。和久は何故か口元に小さな微笑を浮かべながら彼女を見つめている。
武馬は何故かあせった気持になった。
2022/04/11
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