~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-27)
自己紹介がひと通り全部終わった。資金がカンパされ酒が足されると、会はたちまち乱れた。
ある者は故郷の民謡を唄い、ある者は浪人中に見たストリップの真似まねをやり出す。繁岡氏が実験室で飼っている手長猿のカッポレを踊った。
宴の最後になり柴田がまた立ちお上がると、各自何かこのクラスの運営のためにのぞむこと、その他いろいろ個人的な希望注文があったら披露し合おうと言った。みんなは大半酩酊めいていしてはいたがそれでも誰かが立ち上がり、クラスコンパは一月毎にやるべしとか、有志で語学の輪講をやりたい等と注文があった。
武馬は思いついて立ち上がった。全く私的な注文だが彼は丁度下宿について困っていた。下宿先の主人、つまり達之助の後輩の船長が急に船を下り、九州の小さな汽船会社に重役で入ることになっていた。それでなくても滅多に帰る事のなかった東京の家はますます不要になり、留守の老人夫婦は武馬の下宿先が見つかり次第、家を払って信州の田舎に帰ることになった。
逆に恐縮した先方は親切にも武馬が適当な下宿を見つけるまで何か月でも今のままにととは言ったが、一旦そうと決まればいつまでもという訳にはいかない。寮へ当たって見たが新学期早々に入れ換わりは無かった。見知りのない東京でなまじ周旋屋しゅうせんやに頼むよりクラス仲間に当たった方が案外いいものが見つかるかも知れない。
「僕、下宿先が急に引っ越しすることになって下宿を探しています。何処かいいところがあったら教えて下さい。実は急いでるんです」
「当方、東大生眉目秀麗びもくしゅうれい、喧嘩強し用心棒に良し」
向こうで酔っ払った誰かが言った。
「下宿が、横浜じゃ駄目かい」
横で和久が訊く。
「一寸遠いなあ。出来りゃ東京がいいんだけど」
「知り合いもあるから気をつけとくよ」
閉会となり、校庭に繰り出したみんなは本館の前で並んで記念の写真を撮った。酔っ払った誰かと誰かが正門の前の砂利の上で相撲すもうを取ってひっくり返った。
写真の後の解散でみんなはばらばらに駅へ向った。三次会四次会の打ち合わせをしているグループもある。武馬と和久と柴田は三人並んで駅に向った。
ホームで待っている彼等に後からやって来た明子が近づいた。
「あの、坂木さん」
「は」
呼ばれて武馬は直立した。彼が彼女から個人的に話しかけられたのは確かにこれが初めてだ。
「さっきおっしゃっていた下宿、心当たりが有りますの。よろしかったら御紹介しようかと思いまして」
「何処ですか」
「私の家の近くです」
「近くって?」
「赤坂ですわ」
「赤坂って、何処ら辺りですか?」
「ここから遠くありませんわ」
「都心に出るのに都合良い、ってよりももう都心だな。けど ──」
柴田が言う。
「何だい?」
明子が同じ微笑で柴田を見た。
「いや、とにかく便利だよ」
「静かですか」
「その辺りは静かだと思います。前いた方は慶応の大学院の方で今年留学なさいました。ただ、一寸変わった家です。それを貴方がお気にされるかされないか。でも待遇は他の大抵のところよりいい筈です」
「保証しますか」
横から柴田が言った。
「ええ、それより一度見にいらしてお話をお聞きになったら? 御案内しますわ」
柴田がうかがうように武馬を見た。
「それじゃお願いします」
柴田の眼をわざとそらすように武馬は言った。彼にとってこれは大層思いがけない出来事だった。本当に明子のためなら、少しぐらい悪くってもその下宿を借りていっくらいの気持だった。
明子は微笑わらって頷き会釈して過ぎた。
「赤坂か ──」
半分うらやましそうに柴田が言った。
「誘惑は多いよ」
「赤坂の何処かもまだわからない。住宅地だってあるさ」
和久が言う。
「しかし、どうもふと前途多難を思わせるね」
「どうして?」
「とにかく彼女に初めて近づいたのは君ということになる」
柴田が言った。
「彼女は危険かい?」
武馬は和久を見た。和久はただにやにや笑っている。
武馬が見消すと見返すと、
「うらやましいねえ」
案外本気ととれる顔だった。
2022/04/11
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