~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-29)
翌日、歴史学の授業の後明子に連れられて赤坂に向った。彼女と並んで吊革にふらさがっている武馬を他の知らぬ学生は矢っ張り咎めるような眼で眺める。
渋谷でバスに乗り換えようやく二人きりになる。バスの相客の男たちは学生の仲間よりぶしつけな眼で明子を見、武馬を見比べる。武馬はようやくいろんな眼になれ、半ば優越感のようなもので彼らを見返してやる。
当り前な会話がやっと口に出た。
「その家、どんな家ですか」
「どんなって?」
「何してるんです?」
「お師匠ししょうさんよ、踊りの」
「踊り ── ?」
「大丈夫、もうお婆さんよ」
何故か明子は声をたてて笑った。
藤間ふじま紫雨しうって言うんです。躍りのお師匠さんなんて言うとびっくりするでしょうけど、とっても面白い人」
「け、けど、そんな家だと ──」
「妙な間違いなんか絶対におこらなくってよ。保証します」
可笑おかしそうに明子は言った。
「私、そのお婆さんと仲がいいんです。赤坂だけじゃなくて、あの世界じゃ飛び切りのお師匠さんだけど、まだ夢があるの。パリのオペラ座で踊ってやるのだとか、フラメンコを本気で研究してやるのだとか、大変な人よ。貴方にもきっとためになる人だわ」
その噂をする時、明子は大層生き生きして見えた。武馬は見当がつかずただぼんやりと聞いている。ただ、自分がどうも全く見知らぬ世界に踏み込んでいくのだという気持だけはあった。達之助が何と言うだろうかと思った。思いながら、
“俺は俺だ”
自分に言った。
「但し貴方が気に入っても、先方が気に入らなけりゃこのお話は駄目よ」
試すような悪戯っぽい眼で明子は言った。
バスを下り、ひとまず明子の家へ案内されて歩いた。
まだ明るかったが、何処かの家から三味線が聞えて来る。武馬は当惑していた。
ひと目見て湯上りと見える女たちが、馬鹿にあだっぽい身のこなしで歩いて通り過ぎる。その何人かは明子に挨拶して過ぎた。明子は黙って無表情に応えるだけだった。
なるほど聞いた通り軒並みに名の入った門燈をつけた、洒落た形の玄関を持つ家が続いている。しかし、外側を見ただけで詳しくは知らぬが、武馬が想像していた、国家大事が決められ、馬鹿膨大ぼうだいな疑獄が取り運ばれる舞台としては、総じて一般赤坂なる土地の印象はせま苦しく、薄汚く、大して粋とも見えなかった。尤も、こうした世界に出入りする大臣、政治家、実業家という人間どもの柄から考えると見映みば相応と言ったところだ。そう思うと、並んで歩く明子だけがなんともその雰囲気にそぐわぬほど、清潔で美しい印象だった。
右左に曲がり、何本目かの路地に並んだ「北川」という玄関をくぐった。見て来た他の料亭の中では可成り大きい。
女中が出て来て二人を迎える。武馬には、黙って上がって行く明子が自分の家の敷居をまたくのに、何故かことさら胸を張っているような気がし、ふと気の毒な気がした。
長い廊下を通り、調理場らしい場所の横を抜けると奥に別の小さな二階建てのむねがある。
その客間らしい部屋に武馬は案内された。
明子は先方に電話し、
「一寸出かけていて、じき戻るそうです。電話すると言いますからそれまでお待ちなって」
向かい合って坐ると武馬を覗き込むように、
「こんなところ、勿論初めてでしょ?」
「思ったほど立派じゃない。い、いやこのお宅じゃなく、外から見た赤坂ってことです」
「そうよ、外も中も同じだわ」
女が一人お茶を持って入って来た。明子より背が高く、もっと細面の抜けるように色が白い、美人だった。品があった。
“女中じゃない”
武馬は思った。
「姉です」
「いらっさいませ」
明子より三つ四つ年上に見える。
彼女は丁寧に指をついて頭を下げた。見上げた眼が武馬とゆき合った。大きくうるんだような眼だ。着ている薄いむらさきの着物のせいか、彼女の顔は青白く、病み上がりのようにも見えた。眼だけが黒く見ていると吸い込まれるように深かった。
武馬は思わず二人を見比べた。
ふと彼は、この明子の姉にどこかで見覚えのあるような気がしていた。明子以前に、彼はどこかで見ていたような気持に襲われた。何故だかわからない。
「ごゆっくり」
彼女はそのまま静かに立ち上がった。
障子の外で女中に何か言いつける声が聞こえ、入れ違いに明子の母親が入った。武馬は新聞と雑誌で見知った話題の人物を今間近に眺めた。
「いらっしゃいませ、明子がお世話になります」
言って坐りながら、彼女は驚いたような眼で武馬を見つめた。
武馬は頭を下げた。また上げたが、向いに坐った「川北」の女将おかみが一体何で自分をそうしげしげ見つめるのかわからなかった。
2022/04/12
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