~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-30)
「坂木さんよ、同じクラスの」
明子が紹介した。
「坂木さんとおっしゃる ──」
明子の母親の声に驚いたような表情が走った。
武馬は頷いた。女将のえい子は問い正すように彼を見直していた。何か言いたそうな表情になったが彼女はそれを止めた。微笑がゆっくりとおだやかなものに変わっていった。彼女はもう一度確かめるように、好ましそうな眼で武馬を見直した。武馬は矢鱈やたらに固くなって坐っていた。
先刻さっきの明子の姉といい、この母親といい、出て来る女がみんな美人だ。
“流石赤坂だな”
妙な具合に感心した。
見比べて見ると明子は母親によく似ていた。明子の短い言葉からすれば、この母親の職業は彼にも許せそうなものではなかったが、それでも彼女には明子と同じように気品のようなものがあった。
「お故郷くには」
神戸こうべです」
えい子は頷いた。
「御両親は」
「元気です」
「お離れになってお寂しいでしょう」
「ええ、僕より親父や母の方がね。一人っ子ですから」
母と娘は声をそろえて笑った。
「これから紫雨さんのところへお連れするの」
「お師匠さんのところへ?」
明子は下宿の説明をした。
「── 前から頼まれていたの。でもあのお婆さんの眼鏡に合いそうな人ってそう居ないわ」
「そうねえ」
「僕ならどうですか」
「坂木さんならきっとよくってよ」
武馬に訊かれて答えると何故かえい子は小さく声を立てて笑った。どうも明子の口から聞いてグリエの一件については知っている様子だ。明子なら平気で自分の口からそんな報告をしかねない。
「面白い方ですよ。私は時々しかお目にかからないけど、好きですわ。紫雨さんのところなら御厄介ごやっかいになったら、そりゃいろいろおためになりましてよ」
えい子は面白そうに言う。
やがて先方から電話がかかって来、二人は家を出た。
乃木坂のぎざかを上り、右手に小路を入った奥に目指す家はあった。成程辺りは閑静かんせいだ。一寸した冠木門かぶきもんに「藤間紫雨」という表札が出ている。門も家も矢っ張り小粋なつくりだ。しかし玄関まで敷いてある切り石が変にモダンだった。
女中が出て来て、明子は頷いただけで武馬を促してかまわずに上がる。
玄関から廊下に出た時、奥で爪弾つまびきの三味線と手拍子に乗って声が、
「ああ駄目駄目なっちゃないねえ。首が死んでる。お前さんの首はまるでろくろだよ」
誰かに向かって容赦ようしゃない。
十四、五畳の座敷につづいて十畳近い板張りの稽古場がある。その真ん中に据えられた小さな牀木しょうぎに六十近い小柄な女が坐っていた。
「芸者の芸は芸術の芸だよ。芸のない妓が座敷へ出て一体何をするんだい。もっとしっかりおし。芸ってのあね。段取りで身につくもんじゃないよ。つまりこの体で掴む、そうフィーリング、フィーリングっれもんだと」
踊っていた若い女が流石頬を染めていつむいた。
「さあもう一度かえして」
言いながら近づいた明子の気配にふり返ると、
「ああいらっしゃい」
たちまち相好そうごうがくずれた。稽古のやり直しを今言っておきながら急に手を叩くと、
しまい終い、今日はこれでお終いだよ。さあ明子ちゃん奥へおいで」
立って招きながら武馬を見て、
「おや、この人ね。おいでなさい。私紫雨です。君、何を緊張してるの、駄目よ、うちに来て固くなっちゃ、さあこっちへこっちへ」
挨拶して立ちかけるお弟子へ、
「いいかい、踊りは段取りじゃないよ、お前さんはどうも頭の中で考えた考えを踊っているから間がびしゃりと来ない。芸は利口ぶっても駄目、フィーリング、つまり呼吸さ。そう思ってさらってごらん」
ぽんぽんと浴びせるように忙しいことおびただしい。
明子と武馬を意識して若いお弟子は真赤な顔で頷いている。
2022/04/12
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