~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-31)
紫雨なる婆さんに気を取られっぱなしだったが、一寸辺りを眺めて見ると部屋の中というのが少々変わっている。どだいこうした界隈かいわいの踊りの師匠の生活について武馬は知るよし もないが、稽古場の上手かみてに立ててある屏風びょうぶなるものは赤白真っこう二面に別れた表へ描きなぐったようなアンフォルメの抽象絵画だ。隣りの部屋には壁掛けの代わりに何処から持って来たか古風な飾りついたソンブレロがかかっている。隅のハイファイのボックスの下にはジャズレコードの派手なジャケットが散らばっていた。
なにより印象が強いのは当の紫雨なる女主人で男みたいにまくしたてる早口に、着ているものは一応着物だが、動いた加減にきらきらするメタルタッチのお召し、羽織はおりはたもとの濃いガランス色だ。それにふちの太いモンローグラスと来る。武馬はいつか外国のミュージカル映画でこんな印象の衣装を着込んだ人物を見たことがある。
「お師匠さん相変わらずね」
稽古場をふり返って明子が言う。
「しょうがないよ。どうしてこの頃の子はカンが悪いんだろう。でも今の子なんかはまあいい方だね。大体女は駄目だね。女は先天的になんでもカンが悪い、私しあ女は嫌いだよ」
自分が女のくせに言う
「ひどいわねえ」
私や、あんたは別の別よ」
ふり返って武馬に笑った。
稽古場を抜けた別の棟に女主人の居間がある。これがまた女の住居に似ず妙な飾りっ気の殆どない、床は板張りのリヴィングだ。置いてある家具スティンレスとプラスティックの頑丈で簡単なものばかり。隅にひとつ置かれている古い厨子ずしがそれひとつあるせいか大変貴重なものに見える。もうひとつ、隅のサイドテーブルに積んである本の上に、重しのように細工の多い昔のピストルが置かれてあった。
フロイドの「精神分析入門」、レスターの「降霊術分析」、伝記「フロイド」、アレクサンダーの「理性なき現代」、「サド選集第一・二・三巻」、「芸術と心理学」等々ち来た。芸者の頭目、武馬にすれば踊りの師匠というのはそんな概念だったが、その読書にしては馬鹿に専門的だ。
椅子に坐ると、紫雨師匠は自らテーブルのケースを開け一本抜くと火をつけた。武馬もすすめられたが断った。
煙を吐き出し、彼女はふふんと一人頷きながら面白そうに武馬を眺め渡す。
「あなた、この間学校でこの子を助けてくれたそうね?」
明子に関することは何でも知っている様子だ。
「いや助けたんじゃなくて、助けられたんです」
「あんた、専門は何?」
「あなた」がもう「あんた」になる。
「専門って、まだ予科みたいなものですから。でも経済にいきます」
「ああ経済、丁度いいわ」
「丁度?」
「今まで居た山路君は心理学でね、お蔭で私も面白い勉強したけど、今度は経済をやりたいと思ってたの」
「大変ね」
微笑わらって言う明子に、
「いいえ必要なことですよ。私たちなにも、私たちの生活を動かしている大もとの仕組みについて知りゃしないんだからね」
「あの、ぼ、ぼくがお師匠さんに経済を教えるんですか」
「教えるって、そう固いもんじゃないのよ。色んな無駄話の時にあんたの勉強している事の、一番いいところを時々聞かして頂だい。それもちゃんと貴方自身の若い判断を下してよ。私だって自分で勉強しますよ」
「はあ、それはそうと、僕お宅に御厄介させて頂けるんでしょうか」
「ええ、ええ。明子ちゃんの推センだからね」
武馬は驚いて明子を見た。明子は赤い顔をした。
「山形さんからは、お目にかかっても気にいられないと駄目だって言われましたが ──」
「そう」
紫雨は急にあらたまった顔になって正面から武馬をじろじろ眺めた。
「いいわよ、良さそうよこの青年は、駄目なのがわかればすぐ追い出すから」
明子に向って言うと、男みたいに声を立てて紫雨は笑った。
2022/04/13
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