~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-32)
三日して武馬は引越した。別棟の二階にある一室だ。部屋は広く作りつけの書棚まであって大層便利だ。
明子から聞いた費用も毎日の食事やその他の設備からすると馬鹿安だった。
「あそこは本当言うと下宿じゃなくってよ。お師匠さんの、道楽っていうと悪いけど半分自分のための義侠心みたいなもの。紫雨さんて本当は寂しい人なんでしょ。それと自分も気が若くって、若い人が本当に好きなんですのね。何でも相談されたらいいわ。頼れる人ですわ」
明子は言った。
下宿が移ると当然明子と顔を合わす機会が多くなった。第一行き帰りのバスで一緒になることが多い。
武馬の下宿に関してのニュースはクラス中に知れ渡った。出どころは柴田だ。
「おいうまいことやったな」
「ああ、いい下宿だよ」
「それよりチャンスだぜ」
当の柴田が半分ひやかすように言う。
ちまたには赤坂大学とも言うからな、気をつけてくれよ」
下宿の移転については改めて神戸に手紙を出した。発信の所書きには当然正確な住所を書かざるを得ない。武馬は文面の中で周囲が住宅地の閑静なる環境という点を力説した。
当家の状況については、特に踊りの師匠という点については全く記さなかった。女主人紫雨師匠が、いかに世の概念とかけ離れた人物であるかを説明するにはある種の困難が要る。おそらく達之助が誤解しそうな気がする。そのことに関しては、時をかけようと武馬は思った。
しかし、移って僅か一週間であったが、武馬は家のお師匠さんが好きになった。彼女が何事に対しても持っているひたむきさはその年齢にあっては稀有のものであり、全く何のけれんもない。彼女が踊りの世界でどれほど偉いのか武馬にはよくわからないが、もし彼女が他の全く違う仕事をしたとしても必ず成功し一家を成しただろうことを彼は疑わなかった。
表面、女としてはがさつなほどせわしないが、ふとした時彼の姿態には武馬をはっとさす女らしさ、というか色気のようなものがある。ふとした表情ににでもきついものに見せる彫り深の顔の輪郭りんかくは、よく見るとさぞ美しかっただろうと昔を充分にしのばせた。
十日目、紫雨が言った。
「だましたみたいなはなしになるけど、前に居た山路さんにもお願いしてたんだけど週に一度私に英語のレッスンをして下さらない? 勿論お礼はします。山路さんには月月頂く費用を半分にとお願いしてたんだけど」
武馬は承諾した。第一回の講義で紫雨が持って出て来たテキストを見て武馬は驚いた。「Essay of Somerset Maugham」とある。
「私あこの人のものは大好きよ。枯れて皮肉でいいじゃないの」
お師匠さんは言ったものである。

半月ほどたってのある週、和久は珍しく学校を一週間つづけて休んだ。次の週になって出て来た彼を心配して訊ねた武馬に、
「親父が死んだんだ」
暗い顔で和久は言った。
「前に怪我をされたとか言ってたけど」
「そう。あの怪我の恢復が思わしくなくてね。余病が出て来て衰弱してたんだが、矢っ張り駄目だった。苦しんだ挙句ああなるならいっそあの時そのままって気がしたよ」
言いながらひそめられた眉の間に、それだけの言葉では尽くし切れぬ彼の感情があるのを武馬は感じた。
確か辰さんとか呼ばれた男が彼を学校まで迎えに来た後和久が武馬に言った感じでは、わずらって死に到ほどの傷ではないような口ぶりだったが。
和久は唇を噛むようにして口をとじる。それ以上彼の不幸にたち入っていくことで彼を苦しめることを武馬は怖れた。
黙って見守る武馬の前で和久は唇を噛みながら自分一人で何かを考え、これを抑えつけているように見える。悲しみをこらえているようにさえ見えた。
2022/04/13
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