~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-36)
週末、達之助から手紙が届いた。
適当な下宿が見つかって結構、とある。赤坂なる地の故に別段心配もしてはいない。実際遠くで心配したところで仕様もない。が読んでいく内、最後に、学校の生活も一段落し、下宿も変わったことだし近い内近況の検分に上京するとあった。新しい下宿先にも挨拶すべきは親としての当然の義務、とある。
武馬は当惑した。紫雨お師匠さんと達之助の出会いにはなんとはなし、なにかありそうでならない。
「お前はもう年齢相応に一人でいろいろ勉強しろ」
というようなことを達之助は確かに言った。それが何かはっきりしない。が、武馬は紫雨お師匠さんの家に移ってから知らぬ間に色々なことを覚えた。耳にしまいとしても師匠とお弟子の、或いは家に来る客たちとの会話が耳に入る。家でなくとも町を歩いて耳にする会話が耳新しい、と言うより、意味のわからぬことさえあった。
わからぬ会話は紫雨にたずねる。どうせその内わかることだ、今から知ってても悪かあない。ないと言うより、こんな世界の内幕みたいなものをよく知っといて先々、つまらぬ足を踏み込んだりすくわれたりしないことだよ、と紫雨は言う。
下地っ子、半玉はんぎょく、一本、と芸者の階級もわかった。日本髪の型の名前まで覚えた。「水揚みずあげ」というのはどんな髪型ですかと、お弟子たちの前で聞いて大笑いされた。紫雨が眼で咎めるまで、若い芸者たちがお腹をかかえて転げまわった。武馬だけがぽかんとして立っていた。
「お前さんがたが説明してお上げ」
紫雨に言われて、みんなはまた嬌声きょうせいを上げた。
それが芸者の初夜たることも知った。要するにこの世界に住んで一ぱしの顔をしていられるだけの知識は段々に得て来た。
武馬が一番参るのは稽古の後や茶話時に持ち込まれる芸者たちの恋愛沙汰から色出入りを、紫雨が武馬の先住者から学びとったという心理学なるもので分析説明してかかる会話だった。
切れる切れないの愁歎しゅうたんや、出来た出来ないのきわどいニュースが、彼女にかかると総てリビドーによって分析され、コンプレックスとそれに重なるフラストレーションに解析される。同席のお弟子や客たちは半分煙の巻かれて聞いていた。
追い打ちかけてお師匠さんはフロイド流の夢判断といく。
「いい人の夢を見た時枕を抱いてただろう。そりゃねあんたのリビドーが ──」と来る。
同席の武馬には刺戟弱からぬ心理学の講座である。赤い顔をする武馬に気づくと、
「まああんたにはちょいとびっくりな話だろうけど、まんざらためにならないこたあないよ。こうやっていつも相手をつきっぱなして見てりゃ、そうそう年中つまんない相手に好いたの惚れたのってことにあならずにすむ。これを通用させても尚興ざめしまい相手ってのが本ものですよ。そんな時には必ずお言い、また智恵をかしたげるから」
「どうぞよろしく」と頭を下げる以外にない。
2022/04/15
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