~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-37)
しかしそうする内、やがてやって来るお弟子や客たちの会話の中からその人間人間についての具体的な知識をつかんで来ると、住んでいるこの町の珍しい世界の姿が内側から透けて見えて来、感心と同時に幻滅のようなものが感じられる。そう話すと、
「そりゃそうさ。そう気づくのあいいことだよ。どうせこんな世界に住んでいるのあ中途半端な人間ばかりだ。生半可なまはんかな芸と体を半々に売って暮らしてる芸者なんて女あ人間としたって大抵大したもんじゃないよ」
紫雨は言う。
「でもねええ、そう思って、たかをくくっちゃいけない。あんたの年齢としっくらいで、そればっかりの年月で違った世界の人間のけじめがつくわけじゃない」
くぎをさすところはさして言った。
この師匠と達之助が顔を合わし場合、まず何かで達之助が一本や二本の釘をさされないとは受け合えまい。何かで腹を立てたら、こんな下宿は即刻出ちまえと達之助なら言いかねない。もしそうなった場合 ── 考えると武馬は不安になった。そうまで親父の言いなりになることは絶対にない。第一、こんな下宿はいろいろな点でとても他に望める訳はない。今さら出るなどと言うのは絶対に惜しい話だ。
そういう事態を招かぬためには、先ず前もって達之助に紫雨という人柄を説明して分らせる必要がある。彼自身がやってもいいが、出来れば他人がいいだろう。その役を明子に頼んでおこうと思った。
下宿を出、武馬は明子の家まで歩いて行った。
明子は出かけて居なかった。代わりに母親のえい子が出て来た。
「お加減が悪いそうで」
「あら明子がそう申しまして。そんなことはありませんのよ」
言って笑い返す。そろそろ商売の時間で顔をつくりきちんと着込んだえい子は矢っ張り華やかで綺麗だった。が、彼を覗くように見返すその眼の周りに武馬は矢張り何か影のようなかげりのあるのを感じていた。
「新しいお住まいは落ちつきまして」
「はい」
「お故郷くにの御両親はお変わりなくって?」
「はあ、父が最近また視察に出てきます」
「お父さまが?」
驚いたような眼で問い返すように彼を見た。
「お仕事で?」
「いえ、ただ僕の視察です」
「そう。お父さま貴方のことで大変な御様子ですね」
包むような微笑で言う。武馬は何故かその眼がまぶしくて仕方なかった。・
「そのことで一寸ちょっと明子さんに ──」
武馬は彼女への用件を言った。
「── お父さまと、紫雨お師匠さん!?」
えい子は声を立てていかにも可笑おかしそうに笑った。なんだか達之助の性格を知って比べているような笑い方みたいだった。
2022/04/15
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