~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-38)
翌々日の日曜、武馬は横浜へ遊びに行った。
一日や二日見ただけで彼の住んでいる世界がどれほど覗けるわけでもなかったろうが、そてでも武馬には和久の周囲に関心があった。
それ以外にもただ、彼の一人の友人としても、彼がどのような状況の中で人知れずどんな苦悩をしているかを少しでも知り合ってやれればと思った。
海に近い山の手に和久の家はあった。辺りに一目でそれと知れる外国人の住居の多い屋敷町の中に、土塀どべいを廻した、庭に木立の多い古い大きな屋敷だ。雑誌記者の先入観があった訳ではなく、和久組の本拠たるこの屋敷の印象は妙にさびれて見える。
広いみがき上げられた式台のある玄関には、すすけた金張りのつい立てと、大きな額がかかっている。
「ここに居ついたひい祖父じいさんが武士くずれでね」
和久は言った。全く長押にやりでもかかっていそうな家だ。
母が早く死んだ家を代わって切り盛りしていた彼の伯母さんという人が出た。もの静かだが眼だけが女に似ず鋭い。女中に代わって茶を運んで来たのはいつか見た辰さんという年老としとった渡世人とせいにんだった。屋敷では、彼は当り前の顔をして彼を若旦那と呼ぶ。そして自分を、「御客人」と呼ぶ彼に武馬は当惑した。
まごついた顔でいる武馬に声をたてて笑うと、
「せめて君だけでも俺のいる世界をよく見ていってくれよ」
和久は笑った。
そのためかどうか、和久は古く分厚いアルバムを何冊か運んで来て彼の前に拡げて見せた。
「これが先々代、これがその頃四天王と言われたとかいう、半気狂いの男たちだ。君、これあ何の記念写真んだと思う。なぐり込みだよ。見ろ、この男は腕をつってる。人を三人たった切って帰った後の顔だよ」
うんざりした顔で和久は言う。片隅でぴしゃりと音がする。
「へへ、どうも」
静坐した辰さんが自分の首を手で叩いた。二冊目のアルバムをった。
一枚の大きな写真の中に見覚えのある顔があった。椅子いすに坐って真中近く、見覚えのある制服だ。
「こ、これあ、若い頃の僕の父だ!」
「へっ、どれどれ」
辰さんが飛んでにじり酔った。

「これです、これあ僕の親父だ
武馬は指でさした。
和久と辰さんが覗き込んだ。
「なるほどそう言やああの時見たお父さんと ──」
「へえ、これがお客人のお父さんで、こりゃ因縁いんねんだねえ!」
辰さんがうなった。
「ずっと東亜汽船の船長をやっていたんです。この頃はまだどうだったか知らないが」
「そうです東亜汽船で。忘れもしねえ、坂木さんてんだ。当時は一等運運転士でね。へえ、こちらがその坊ちゃんでねえ」
一人で感心する。
「この写真にあいろいろ訳があるんですよ。へえ、こ、この後のここに立ってますのが私なんで」
さされた二十前後の辰さんは馬鹿に痩せて眼だけが険悪に見えた。
「今よりもっと眼つきが悪いぜ」
和久が冗談に言うと、
「そりゃそうですよ。なにしろこれあ一悶着ひともんちゃくあった後のことですからねえ」
真顔で言った。
写真の中央に高級船員の制服を着た男が三人坐っている。真ん中が船長らしい。右にチーフメーターの達之助、左が事務長パーサーだと辰さんは言った。
埠頭らしく、後に船が写っていた。
2022/04/17
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