~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-39)
当時、和久組の他二、三の縄張りだった荷積みの沖仲士おきなかしの仕事に、新興のある財閥ざいばつの勢力をかさにきた横車が入った。あこぎな横車に抗し切れず他の会社の縄張りが次々に侵され埠頭の勢力関係の治安が乱れかかった。
和久組とその新勢力との角逐は必然的にやって来、その舞台が達之助の乗っていた東亜汽船のライナーぱなま丸だった。東亜汽船の仕事はそれまでずっと和久組が受けて来たが、その縄張りに相手が頭を突っ込んで来たのだ。
汽船会社の陸上の事務側がその相手に半分買収されかかっていた。勝負ははた目にも和久組に不利と見えた。和久組としては面子めんつと、何より埠頭の最後の牙城がじょうとして、力ずくでもその仕事をとる算段を計った。相手もそれ以上だった。
何も知らぬ船がつくと、陸の事務側は最後の決定権を船側に預けて巧みにその渦中渦中かちゅうから身を退いてしまったのだ。
船長は船の上で両側の言い分を聞いた。その裁断に当然船長は躊躇ちゅうちょした。その躊躇を見て、今までの横車に図に乗った相手方は、船長に対して無礼に出た。その相手を脇に居た達之助が叩きつけたのだ。
それが事実上の裁断になった。和久組は以前通りに作業を開始した。その作業を相手方が執拗しつような直接行為で妨害に出た。船員たちが一緒になって和久組を助けた。最後に締めくくるような大乱闘が起った。
「── そ、その時の坂木さんのあばれ方ってのが、今でも眼に浮かびますねえ。しまいにゃ船からはしけの上まで飛び下りてね、いや滅法強かった。野郎たちを海へ蹴込んだ後ね亡くなった先代と背中合わせにステッキをこう構えて見栄を切った時なんぞ、あっしあ周りを忘れて思わず声をかけたね」
辰さんはうなるようにして言う。話によると達之助のステッキはその時以来かも知れない、と武馬は思った。
「それがけりでね、波止場じゃ二度と野郎たちの言いなりになるものは出てこなくなりやした。和久組の縄張りも戻ったし、相手はそれで芽がつぐれてハマじゃ他の地盤まで無くしてじきに消えちまいましたよ」
話している間に辰さんは武馬の手からアルバムを取ってしまうと、彼の前に立てるようにしてかかげた。
「── 船長ってよりね、実際あの坂木の旦那が、いえその、お客人のお父さんが和久の縄張りを救ってくれたみてえなもんです。それ以来、船がつく度、荷がなくてもたといどんな短い時間でも必ず顔を見せられたもんです。いえ、あっしたちがうかがわせていただいたもんでっすよ」
「へえ、すると親父は坂木君の親父さんも知ってたんだな」
「勿論ですって。戦後和久組も変わりましたがね、それでも時々お目にかかった筈です。なんでも四、五年前船はお下りになったんだそうで、それっきり御無沙汰しちゃいますが」
辰さんはアルバムを置き静坐したまま右の肩をいからすようにして武馬を見た。気負ったものを言おうとする時の癖だ。
「ぼっちゃん」
客人がいつの間にかぼっちゃんになる。言いかけて急に眼をしばたいた。
「── お父さんにお聞きなって御覧なさい。ハマの鬼面きめんの辰って言や必ず御存じだ。しかしなんですねえ、こちらがあの坂木の旦那の坊ちゃんですかい。因縁いんねんだねえ ──」
また言って鼻をすする。間に合わず眼から大きな光るものが一つ掌に落ちた。
附帯にはそれが少々大袈裟おおげさに感じられたが辰さんは本気に見えた。
2022/04/17
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