~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-41)
夕食をすまして家を出、和久の案内で横浜をあちこち歩いた。元町上の山手から眺めた港の夜景は美しかった。海は眼の下にある。数多くともされた明りが黒い水の上に真珠のように埠頭や倉庫や、或いは船たちの形を縁どって見せる。
沖を灯の固まりが動いていく。
「船が出ていく」
和久が言った。
「君は船が好きか。よく見るかい?」
「好きだよ。でも神戸に居たがそんなにわざわざ見にまではいかなかった」
「俺は暇があると岩壁を歩くか店のはしけを出して船の近くまでいって見るんだ」
下の港に向って歩き出しながら和久は言う。
「家の商売がね、住んでる世界がいやになるとますます船にかれたな。大きな鉄の船を見ていると本当はもともっと、なにもかもが可能なんだって気がしてくる。自分の今居るところを飛び出したくなるいつも船を見に行ったもんさ。センチメンタリズムなんかじゃない、息をつくみたいな気持だった。そうやってなんとか大学に入りはした。入りはしたけど、実際船を眺めながら受験勉強した時漠然ともってた期待ほど今俺の住んでる世界は拡がっちゃいないよ」
「君は今の仕事を継ぐ以外に、何かやりたいことがあるのかい」
「別にまだ何といってない。出来りゃ外交官なってやりたいと思ってた。しかしそれだってまだ漠然としたもんだ。ただはっきりしてるのは、あの世界が好きじゃないってことさ」
「そりゃ君の我ままだよ。君はきっとまだ甘えてるんだ」
「甘えてる、何に?」
「今までの君の周りにあったすべてのものにさ」
「馬鹿言え」
「いや、きっとそうだ。僕にはそんな気がする。君は君の住んでいる世界が拡がっちゃいないっていったが、それあ拡がるもんじゃない、拡げるもんだよ。そうじゃなきゃ俺たちあ何のために若いんだい。青年ってものは自分自身のために、そして周りの数多い他人のために世界を拡げるものじゃないか、それだけが俺たちの人生の役目ってものさ」
「うん」
とだけ和久は言った。
公園を抜け、大桟橋だいさんばしに入った。カナダ籍の巨大で優雅ゆうがな純白の客船がついている。
「大っきくて、強くて、速くて、こんなに洒落たがって、たいていのものにあ動じない、そんな人間に俺はなりたい」
独り言に低く、が唄うように和久は言った。
桟橋近い喫茶店でお茶を飲み、そろそろ帰ると言う武馬を送りながら海伝いに歩いた。もう九時を少しまわっている。
「その先の運河を渡ったところに家の港湾事業事務所があるんだ。つまり和久組の陣屋さ。ついでに一寸寄ってみるかい。俺も用事を思い出した」
武馬は頷いた。
2022/04/18
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