~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-42)
上げ潮の入り込んだ運河に、はしかがひしめき合って繋がれている。運河にかかった橋を渡った。海に面した小広い広場の前に和久組の二階建て事務所が見える。
建物には明りがついていた。と見る間、慌しく二、三人の男が走り出、一人がまた戻って中から 怒鳴 どな ると二人はばらばらに違った方向に駈け出す。
片方が二人の脇を駆け抜けようとした。丁度岸っぺりに立った街灯の明りで男は和久を認めた。
「あ、わ、若旦那! さっきから捜し廻ってたんです。一体、ど、どこに ──」
「どうしたんだ」
「組の者がやられた、川名の奴らに切られたんで、常川の兄貴に、角田が」
「なんで!」
「そ、それが目茶目茶なんで、と、とにかく早く」
せかすように言って男は駈け戻る。
「若旦那がいらっした!」
声に部屋中の顔が振り返った。
上を取り払われた机の上に男が二人寝ている。左腕を吊った方が起き上がろうとし顔をしかめた。
連れて来られた医者はかがんだまま片方の肩に 繃帯 ほうたい をまきつけている。その周りに六、七人の男が立っていた。辰さんの顔がある。
「どうしたんだ、常川」
「か、川名です」
腕を吊った男がうめいた。
「その先の第五倉庫の蔭で、角田と荷と鍵を調べて帰って来るといきなり五、六人で飛び出しゃがって、向こうの文句を聞き取る間もねえ、なにかなにかほざいたと思うと後から一人が角田をやりやがっら」
「何故病院へ連れて行ってちゃんとした手当をしないんだ」
「若旦那」
あげぐように爪川は言った。
「もうじっといられねえ。手傷だけ負わすと、奴らぬかして引き上げやがった ──」
「こうやってなしくずしに和久組をけずってやる、せいぜい 穏和 おとな しくしてろって言ったそうです」
辰さんが言った。声が震えている。
「若旦那、亡くなった社長でももう我慢はされやしねえ。奴ら、面と向かって売って来てるんだ。畜生う、俺や片腕だけでもやってやる」
坐り直す常川に、
「俺だって」
医者の手の下で角田がうめいた。
「駄目だ、許さない!」
「な、なにを言うんだ若旦那、こうなった上あこっちから殴り込みをかけなきゃ、第一、しめしがつかねえ」
「駄目だ!」
「何故です。若旦那が何と言おうと、死んだ社長のとむらいをかけて、俺たちだけでやります」
「そんな泥試合がなにになる」
「若旦那」
辰さんが言った。
「おっしゃることは理の当然だ。けど、この世界じゃ違うことだ。この泥試合は向こうが売ったんじゃねですか。奴らがあこぎにやろうとしていることから、ただこっちの身を守るためだけにも、結局その泥試合を買わなきゃ俺たち一人一人の身がもたないんだ。見なせえ、眼の前にその生きた証拠がある」
怒ったような眼で和久を見つめる。
「そうだ、辰の親父さんが言う通りだ ──」
常川が尚言おうとした時、前の男をどけて出た辰は黙ったままいきなり着ていた着物の肩肌を脱いだ。仇名の通り、鬼の面が歯をむいて半分顔をのぞけて出した。その右眼にかけて古い傷が走ってあった。そして脱いだ片腕とその首筋と肩の上にも。
「御覧なせえ、ここで男を売ろうてんじゃない。けどこの傷は今まで和久組の所帯をもたすために作ったもんだ。いやそうじゃねえ、あっしってけちな男が和久組って所帯の中でまあまともな人間一匹で生きるために作ったものです。あっしだって出入りあこわかった。今でも怖い、やりたかねえ、けど、それをやらにゃただまともに生きていかせねえと言う奴がいる限り馬鹿でもそいつを受けなきゃこっちが殺されるんです」
2022/04/19
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