~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-48)
武馬と並んでみんなに向いながら、彼だけに聞こえるように、
「そうは言ったがことの出始めに他人を殺したと言うのは厭な話だ。人が一人死んだというだけでこんな話の評判は必ず倍になるんだ。俺がこれからやろうとしてことより、昨夜ゆうべの出入りの方がきっと俺を有名にするよ」
吐き出すように和久は言った
「それに、あの男はきっと俺がやったんだ ──」
「なにを言うんだ」
「いや君だから言うが、短刀どすを捨てて蹴上げた時、あの男の顎の下を蹴った足の甲が半分以上もめり込んだよ」
「それじゃその前にあの男を引き倒さなきゃよかったことになるよ。そんなに単純にものを考えるなよ。重なって起きた出来事じゃないか。それをたどっていけば結局は君が言った通り、君が悩んでいるこの世界の悪い習慣につながっているんだ」
「その通りだ」
気を取り戻したように和久は微笑わらった。
「君にはいつも一本やられる」
「いや、はたからは他人のことがよくわかるということさ」
「そう、だろう。そうだよ」
和久はにやりと笑って言った。
「警察の前で、迎えに来てた明子さんが君を見た眼を覚えているか」
「え」
「君は上がってたからよく気づかなかったろう ──」
「なにを?」
「どうして彼女はあんなに悲しそうな眼をしたのかな ──。俺は改めて君に迷惑をかけてことを慚愧ざんぎしたが、しかしながら少々癪にさわったぜ」
「なんで?」
と訊き返しはしたが武馬は頬が一寸熱くなった。
「なんでだと、あんまりぼやぼやするなよ。敵は多いんぞ」
半分真顔で和久は言う。
「君の下宿を強引ごういんに横浜に移すべきだったよ。見ろ、mだ心配そうに君を見ている」
言いながら彼は少しばかり残念そうに唇を曲げた。
言われて武馬は明子へ振り返った。視線が出会うと明子はさけるように眼を伏せた。武馬は何故か妙に慌てた。
なれない雰囲気ふんいきのせいか明子は紫雨師匠の蔭にひかえるようにして立っている。尤もお師匠さんの方は御神酒おみきが廻ったせいかどうか、先刻の権幕も忘れてたちまち周りにうちとけ歌が始まると陽気に合いの手を入れ、近くの誰かれつかまえて、なにやら一席びっていた。辰さんが脇を通ると彼をつかまえて何やら言う。辰さんはこのお婆さんが苦手と見え手を上げながらなにやら弁解すると奥へ逃げて行った。
2022/04/23
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