~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-49)
祝いは終り武馬たちは和久に見送られて桜木町から電車に乗った。武馬と明子は紫雨お師匠さんを挟んで坐った。二人はなんとはなし、いつものように口をきき合えなかった。
明子が武馬を心配して紫雨と二人で東京からわざわざ駈けつけてくれたことに、今になって自分が戸惑っているのが武馬にはよくわかる。
武馬はお師匠さんの頭越しにちらちら明子の横顔を眺めて見た。明子は少し伏し眼のままじっと前を向いて坐っている。
武馬は和久の言ったことを想い出してみる。明子が自分の身を気づかって飛んで来てくれたことは理由は何であれとにかく嬉しかった。
ただその理由を本当に和久がほのめかしたようにとっていいのぁどうか。そうと取った時に自分はどうしたらいいのか。それを考えると武馬は一人で気持が上がると同時に妙に混乱して来る。そんなことを相手にしては、明子は彼にとってはいつも美しすぎ印象が強すぎた。
二人が黙ったまま電車は鶴見を過ぎた。
「武馬さん、窓を少し開けて頂だい。御酒おみきいてちょっと暑いわ」
お師匠さんが言った。武馬は言われるまま窓を開けた。
「ああいい気持」
言いながら紫雨は交互に二人を眺めた。
「帰ったら早速お故郷くにへ手紙を書くんだねえ。きっと新聞で読んで心配していられるよ」
「はい」
言われて武馬は改めて父の達之助ことを想った。あんな父だからやったことへの言い訳は簡単に立つだろうとは思う。しかし、このことがきっかけで間違いなく父が上京して来るに違いないと彼は思った。もはや達之助対紫雨師匠の出会いなどに気を使っている閑などない。
「訳はなんであれ、本当に親不孝だよあんたは」
紫雨は言う。
「はい」
「心配しているのは親御さんだけじゃないよ。私だって、この明ちゃんだって同じだよ」
「はい」
「私あ、この子が朝真青な顔をして飛び込んで来て知ったんだけど、明ちゃんが学校へ行くバスの中の新聞で知っておのまま次から引き返して私のところへ来たんだよ」
「お師匠さん、そんなこといいんです」
慌てた声で明子が言う。
「その気持をくんでおやり」
「はいっ」
武馬は感動した。
「ど、どうもほんとうに御心配をかけて申し訳ありません」
「なにを言ってるんだい。その他人行儀な言い方はなんです」
「で、でも」
「でもじゃないよ。とにかくこれからは怪我をしそうな真似まね金輪際こんりんざいしないと約束なさい」
「します、すみません」
武馬は頭を下げた。
「なにかしっくりいかないねえ」
紫雨は一人でじりじりしたような声を出した。その隣で明子が前以上に身を固くしていまったいるのを武馬は感じる。
「僕、ほ、ほんとうに、明子さんが来てくれて、も、ものすごく嬉しいと思いました」
それだけ言うのが武馬には精一杯だった。
「あたしだってわざわざ来たんだよ」
「それも同じでした。嬉しいと思いました」
「それ、それとはなによ」
言ってから紫雨師匠は、あはははと声を出して笑った。
2022/04/23
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