~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-57)
明子と和久と三人して赤坂へ帰った。
達之助と紫雨は玄関まで出て来る。達之助が息子を玄関まで迎えるなぞ流石に初めてだ。
「ああ、目出度いねえ。よくやったよくやった」
お師匠さんは一人ではしゃいで言う。
「朝ね座敷に大きな蜘蛛くもがいてね、朝の蜘蛛は縁起がいいってえからね、私あ本当は安心してたんだ」
ここまで来ると大分に古い。
「もしもって言ったってねえ、理由がないものかねえ理由が、いくら古いっていったって学校の先生だものそう馬鹿なことは言っこないよ」
明子の電話でしつらえたか、座敷に酒肴しゅこうの用意がしてある。
「とにかくお祝いだよ」
挨拶しかける和久たちをせかして入れると、それぞれ忙しく継いで廻る。
「はい、お目でとう」
「御心配かけました」
頭を下げる二人へ、
「これからは少しはたの者のことを考えるんだよ。和久さんあんた約束した通りに頼んだわよ」
釘をさすことだけは忘れなかった。
「うむ、見れば見るほど確かにあの時の青年だ。お父さんより母さん似だな」
「どうも親子代る代るお世話をかけます」
「なにを言う、なにを、この人生の奇遇、二人ともこれに感じなくちゃいかん」
「感じます」
「やれ、大いに、やりたまえ」
達之助は二人を待つ間に少し御酒が入っているようだ。
「またそう言う。明子さんから電話が来るまではそりゃ落着かなかったがね、聞いた途端それで当然だと、こう、偉そうに言うのさ。駄目駄目、子の親がもう少し深いことを考えてやらなきゃ。やれやれとは何ですよ。無責任だよ少し」
たちまち紫雨がきびしい。
「いやよろしい。若い者にその意気なくてなんでこの世の中が新しく変わっていきますか。功利計算、己の身だけを計る生き方が一体人生に何をもたらす。女の知ったことじゃ ──」
「おや、私あなにもそうは言いませんよ。女、女と言わないで頂きたいねえ。とにかくね、あなたのでんだけでいきゃ今にこの子は傷だらけになっちゃいます」
「それは ──」
「それはじゃありませんよ。子供というものはもう少し繊細に育てる必要があります。貴方にはないかも知れないけれど、武馬さんの神経にはもう少し上等のものがあるの、それを ──」
「わかりましたわかりました」
達之助が折れた。
武馬には二人の口論がどちらにしても面映おもはゆかった。
「女、女って言いますがねえ、私だってこの明ちゃんだって貴方みたいな無責任な心配の仕方じゃありませんよ」
「お師匠さん」
明子が袖を引いた。
「いや、本当にいろいろかたじけない」
紫雨師匠を封じるように達之助は頭を下げた。
「こ、このお嬢さんをどこかで見たことがあるな」
「僕をお師匠さんに紹介してくれた ──」
「赤坂の『川北』のお嬢さんでね、武馬さんとは学校のお友達よ」
「それは武馬の手紙で聞いたが、うん、あんたがそうか ──」
達之助は頭をそらせ、細めた眼でしげしげと明子の顔をのぞいた。
「そうか、ふーん、あなたがそうか」
感心したようにうなずくと、
「お母さんはお元気か」
「はあ。いら母を御存じでいらっしゃいますの」
「いや、ただ、新聞でお見かけするのでな」
しまったという表情で達之助は言った。
明子は黙ってうつ向いた。
{いろいろあなたたちも大変だろうねえ」
言ったことに気いてか、いたわるように達之助は加えた。そしてまた、
「しかし、似ておられるなあ」
感に耐えぬように言った。
武馬はふと何かを想い出しかかって出来ずにいた。
「お師匠さん、今日はひとつお許しを願って酔いたいな」
「断ることはありませんよ。こんな日に」
「有りがたい。明子さんも、和久君もゆっくりしていってくれたまえ。滅多にお会い出来ないかた武馬のことをようくお願いしていこう」
眼を細め、自分でさかずきに注ぎながら達之助は言う。武馬は今日のように、安らいで気持のよさそうな父を見たのは初めてのような気がした。
教授会の結果もさることながら、彼が連れて来た彼の友人二人が達之助にどのような印象を与えているかが想像ついた。
「坂木君には言ったんですが、組の後目相続の式に、出来れば彼と一緒においで願いたいのです」
「そうか、しかし行きたいが私もそう長くは居られない。それに君の新しい門出の式なら、新しい友人のこいつが行けばいい。一代前の私が出るまでもないだろう」
「いえ、僕の親父の代わりにそれを見届けていって下さい。それに、鬼面の辰や、また他に是非お目にかかりたい人間が居ると思います」
「辰さんか、昔あ気が早すぎたが、それでも先代にはいいつっかえ棒だった。会いたいな」
机の上が改められ、晩餐に入ってからも達之助は気持ちよさそうに酔った。
酔いながら達之助は気持ちよさそうに眼を細め幾度もしげしげと和久と明子をみつめ直した。
何かのはずみに、
「お母さんを大切にして上げなさい。くれぐれも大切にして上げることだ。いいかね」
明子に言った。
ただの説教にしては馬鹿にしんみりしているな、と武馬は思った。
それから横になるまで酔ってか達之助は同じことを三度も明子にくり返した。
2022/04/28
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