~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-58)
達之助が横になった後、武馬と明子は和久を新橋の駅まで送って行った。
酔いが少し廻っていて、夜風の通るプラットホームは心持ちがいい。ドアが閉まり動きだすと和久はドアの後に立ったまま二人に向かって両掌を前で握って振って見せた。
武馬もそれにこたえたが電車が行ってしまうとなぜだか急に面映おもはゆくなった。和久は別に意味でなんな風に手を振ったのかも知れないぞ、とふと思った。その後、なんとなしに顔を見合わせたとたん、なんとなく両方の頬がほてった。
二人は固っ苦しく肩を並べたまま黙って駅の階段を下まで下りた。
外の雑踏ざっとうに出るとやと気がほぐれた。
“なにかもっと違ったことを彼女に向って話さなけれなならん”
と武馬は一生懸命に思った。
「バスに乗らず、歩きませんか」
「ええ。でも大分あるわよ」
「大したことあない。くたびれたらそこからバスに乗りゃいい」
”どうも俺の会話はぎこちなくって要領が悪いな”
また思った。
二人はガードをくぐって田村町に向って歩き出した。歩き出すと少し気が楽になる。武馬はまた段々すごく愉快になった。一件の片がついた後の安堵あんどと合わせて、自分が好きな、自分を好いてくれている人間ばかりの集まりが彼の心を大きく豊かなものにしてくれていた。
彼はふとすべてが可能なものに感じられた。昔の学生ならマントをひるがえし、大いに下駄を鳴らし歌でも歌いながら歩いたところだろう、と思った。
マントや下駄の代わりに彼には美しすぎる連れがある。そして彼女に向ってなんとかもう少し違った話をしなければならないとしきりに思う。
それがどんなことか、たとい知っていてもどうも旨くは出来そうもない。武馬はこんな時になって妙に父の達之助の顔ばかりを想い出し自分でいやになった。
「どうなすって、気分でも悪いの」
あんまり彼が黙っているので明子が訊く。
「いや、とんでもない。すごくいい気分です ──」
どうも会話に調子が出ない。
“なんのために俺は彼女に一緒に歩こうなどと言ったのか”
考えて見ると明子とこんな風に二人だけで歩くのは初めてのことだ。少し酔って気分がよかったせいか、自分がそんなことを簡単に言い出したことに今頃になって一人で照れて慌てていた。
「あの集まりに超人先生や繁岡さんにも来てもらいたかったな」
「本当にそうね」
心からのように明子は言った。
「── 僕の周りにはいい人たちが沢山居てくれる。超人先生や繁岡さん。和久、紫雨おっ師匠ししょうさんも、それに、君もです」
「──」
急いでつけ足したが、その後武馬は一人で真赤になった。
明子は黙っている。彼女がどんな顔をしているのか武馬は覗いて見たかったが出来ずに無理して前を向いたまま真直ぐに歩いた。
しばらくしてから、今通り過ぎて行った人が顔見知りででもあったような顔をして振り返って見ながら明子の子を眺めて見た。明子は微笑している。それを見て武馬は安心した。
人通りは少ないがいきかう自動車がヘッドライトで二人を照らし出して行き過ぎる。その度に浮き上がる明子の横顔は矢張り、文句なく美しかった。
彼はかつて受験勉強の暗記もののために一人で散歩した神戸の山手の公園辺りでよく見た、夜の二人連れを想い出した。ずい分まぶしい気持でそんなカップルをやりすごしたものだ。
それにしても彼が今一緒に歩いているこの明子は文句なく、たぐいなく美しい。武馬はなんとなく、すごくついているような気持になる。そうなるともっともとお大胆にそんなことがやれそうな気がするのだ。
が、それにしてもどうも旨く言葉がのどから出て来ない。
2022/04/29
Next