~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-59)
「武馬さんは幸せね ──」
明子が言った。
「どうしてです」
「あんなお父さまがいらしいて」
「当代未聞でしょ。時々参ることがあるんだ」
「でも ──」
「そうか、君はお母さんだけだからな。お母さんを大切にしてあげることだ」
達之助の口調を真似まねて言った。
「でもお師匠さんはああ言うけど僕は親父に感謝している。あんな親父でなかったら、僕はとても今みたいな男になってなかったような気がするんだ。和久みたいに自分一人であんな人間にはとてもなれそうもない。だから、だから僕はこれからなんだ」
「私だってそうだわ。岡さんには随分我まま一杯言って来たけれど。それでも私、母がなかったら今の自分なんかとても考えられない。あんな世界で反抗するだけのことはやさしいけれど、いざそこから何か新しく出直していくのは、それは結局私自身の力ということになづんす。私だってこれからだわ」
二人は顔を見合した。
「どうなるかなあ、僕たち」
「え?」
「いや、その、僕あ波乱万丈はらんばんじょうに生きたいな」
明子はゆっくり微笑した。
「黙っていたってあなたは波乱万丈になりそうよ。お師匠さんは当分心配づづくでしょうよ」
君は? と訊きたいが武馬は言えなかった。
「余り心配はかけたくないな、僕だって気が気じゃないんだ」
「そりゃ当り前よ、楽しんでいられちゃ心配するこっちが合わないわ」
明子は笑った。武馬はなんとなく安心した。
「僕あ、やっぱり、赤坂に来てよかった」
どうもせいぜい言えてこれくらいだ。明子は黙っている。武馬はまた横が向けなくなって前ばかり見ていた。
「和久は横浜へ来いと言ったんです」
“それも余計なことだ”
言いながら思った。
を置いて明子が、
「来て頂いてよかったわ ──」
「え!」
武馬の声が大きすぎたので明子が黙ってしまった。・
「そうですか」
深刻な声で武馬は言った。
「僕も、よかった。本当に」
言った後で二人は合わせたようにくすくす笑い出した。
2022/04/29
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