~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-60)
それでなんとなく二人の気持の緊張のようなものがほぐれた。手をつないでいるような気持で二人は歩いた。
「君が横浜まで来てくれた時 ──」
言い出すとまた明子が緊張するのがわかる。
「あの、あの後で和久の奴が僕にぼやぼやするなって言った ──」
「どうして?」
「ど、どうしてって ──」
武馬には和久の言った訳がわかったような気がしたがそれはどうも矢張り今明子に説明は出来そうもない。
「変だわ」
「い、いや、僕はその、普通の奴らみたいにどうもスマートにいかないんだ」
「どういうこと」
意地悪いみたいに明子が言う。
「どうって、ただです。とにかく ──」
「それならそれでいいじゃないの。そんなことに気を使う必要はないわ」
「そうですか」
どうも会話がいき違うような気がするが、それでも武馬はそう言われて満足、というより安心した。
「ああ畜生!」
「どうしたの」
「なんとなく愉快だな」
明子がまた笑う。その声につられて武馬も笑った。彼は段々もうあせらずに、前よりも満たされたような気持になった。
悪いが、お前がぼやぼやしているならと言った和久だって、ああやって電車に乗って帰っていっていまった。クラスの他の奴ら埒外の外だ。
“僕はややっぱりついている。貴様なかなかやっとるぞ”
と武馬は自分に向かって言った。
ぶらぶら歩いているより、明子の手でもとって駈け出したいがそうもいかない。
乃木坂に抜ける通りから、「川北」のある路地口まで来ると明子がもういいと言うのもきかず細い路地に沿って「川北」まで明子を送って行った。
その路地を「川北」の玄関と勝手口へ更に左へ折れた時、明子が急に立ち止った。考えるといつもにまして路地に停められている車の数が多かった。その車にそれぞれ小旗があった。
玄関に向かってライトが浴びせられ、騒ぎこそなかったが「川北」の前に時ならぬ混雑がある。ひと目で新聞記者と知れる連中がうろうろしていた。
武馬は横から明子の顔を覗いた。彼女の顔色が青い。明子は彼へ振り返ると、
「それじゃ」
「どうしたんだろう」
「きっと ──」
言いかけて小さく唇を噛んだ。
「さよなら」
武馬の方から言った。
「何か、何かあって僕に出来ることがあれば何でもやる。言ってくれ」
自然に掌がさし出された。
痛ましいような微笑で明子は頷き、差し出されたその掌を握り返した。細く暖かい掌だった。武馬は力一杯それを握り返した。
明子は身をひるかえすように勝手口に消えていった。武馬は黙ってそれを見送っていた。掌の内に握手の暖かみだけが残った。立ったまま掌を開いてそれを眺めた。残った暖かみは消えなかった。立ちつくしたまま武馬は自分の心が段々たかぶっていくのを感じていた。
“なんでもいい、あの明子一人は俺が引き受けてやる!”
子供の時何かで母親に感じた以外に、生まれて初めて武馬は女のために気負ったようにそう思った。
2022/04/30
Next