~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-61)
紫雨の家に帰った。達之助は寝ていたが、お師匠さんは起きている。武馬は改めて今夜の礼をした。
「明子ちゃんをちゃんと送ったかい」
「はい」
「お前さんたちのことだからあの子を放り出して何処かへまた祝杯でも上げに行ったんじゃないかと思ってた」
「とんでもない」
言訳の代わりに「川北」の周りの様子を話して聞かせた。
「ふーん。いよいよ来たらしいね」
「なにがです」
「例の事件さ。大臣の方も危なくなったらしい。配達に来た者の話じゃ今晩『川北』から急に座敷を取り消して来られた妓がいるらしいよ。芸者の代わりに警察が入ったらしい」
「警察が?」
「事件も大詰めだね。悪い奴はどんどん縛られりゃいいのさ。でもあの 女将 おかみ は可哀そうだよ」
「どうして」
「結局は男のかかわり合いでみんな利用されてるんだ。間違いないよ。今となりゃ白は白、黒は黒とするさ。それだけの気性はある人だよ」
達之助は大きないびきをかいて寝ていた。それも不思議に武馬が部屋に入ると眼だけはさます。薄暗がりの中で彼を認め、
「武馬か、よし寝ろ」
言うとすぐまた同じいびきをかいた。
しかし武馬は床の中で心配だった。心配してところで彼にどうなり筋ものでもない。ただ唇を噛んで彼を振り返った明子の顔だけが心に残った。そして握手の温かみが、武馬の心の中でもう一度一人で掌を握ってみた。
翌朝の新聞に事件が記されてあった。
内閣閣僚に及ぶ疑獄嫌疑について調査をすすめていた検察庁はついに事件に関する一連の確信のもとに証拠人の召喚と証拠品の差し押さえにのり出した。その一人として事件のヒロインとも見られていた「川北」の女将えい子は訊問のために検察庁に召喚されその留守中に「川北」は家宅捜査を受けたのだ。
「川北」を舞台とする疑獄の幕がいよいよ切って落とされたという訳だ。
新聞を眺めながら武馬が、
「大変だなあ」
「うむ、大変だ」
別の新聞の同じ記事を読みながら達之助も言った。
「ひっぱられるのかなあ、明子さんのお母さんは」
「わからんなあ」
「実際に悪いのは ──」
「どうせ他の奴らだ」
「しかし ──」
「それああの女だってよくはないだろう。しかし」
紫雨も黙って別の新聞を読んでいる。
「お師匠さん、もし明子さんのお母さんがひっぱられるとしたら、あの店はどうなるんです」
「そりゃ 香世 かよ さんがやっていくよ」
「でもこんなことが起ると店の名に」
そんな心配はないよ。同じようなことが何処にだってあるんだからね。ただ私ああの女将をこんな筋書きの中に出したかなかったねえ」

学校には明子の姿はなかった。
武馬は和久に訳を話した。
「新聞を見て知っている。しかし大丈夫、彼女はそのことで決して深く傷ついたりせんよ。それだけのものは持ってる」
和久は逆に武馬を励ますみたいな言い方で言う。
が武馬はまた昨夜の明子の顔と、駈け込んで行くその後姿を想い出した。それは武馬以外の誰も知らない、誰も感じることのないものに違いなかった。武馬は今誰よりも自分が明子に近い所にいるのを感じた。きっと、何かで彼女が自分を必要としているに違いないと信じた。
横浜に駈けつけてくれたように、何かの形で彼女を見守ってやろうと思った。
2022/04/30
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