~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-62)
学校の帰り「川北」に寄ってみることに決めた。顔だけ見て、何かひとことかけてやろうと思った。
大通りからのつぎの小路を「川北」に向って入った。
「川北」の路地に近づいた時、武馬は遠くでサイレンの音を聞いた。歩くにつれその音は彼を追うようにして近づいて来る。
路地に出た時、左手の乃木坂の通りの方角から狭い路地一杯に、あい変わらずけたたましいサイレンを鳴らしながら真白な救急車が入って来るのが見えた。
その反対側から中型の車が同じく急いで走って来た。両方の車は向い合うように「川北」の小路の前で止ったのだ。
黒いかばんを持って車から出た男が制するように救急車に向かって手を上げた。武馬の見守る前で、鞄を満った男は「川北」の玄関へ駈け込んで行った。
サイレンの音で野次馬が集まって来た。よほど玄関に入って明子を呼んでみようと思ったが、訳のわからぬまま事態を察して武馬も救急車の蔭に立って見守っていた。
二十分ほどして勝手口から白い割烹着かっぽうぎを着た女が二人飛び出して来た。女は野次馬の見ている前で寄り添ったまま勝手口のへいに頭を押し当てるようにして泣いている。
顔見知りか、立っていた年輩の女が二人に近づき顔を寄せて訊ねていた。
女が仲居に所へ戻った。みんながその周りに集まった。押し殺したような声でその女は言った。
「女将さんが自殺したんだって! 警察に出かける前に、鍵をかけて薬を飲んで死んだらしい」
噂はまたたく間に伝わった。
武馬はぼんやり立ったままそれを聞いていた。
「気の毒にねえ、なんてこと」
綺麗きれいな、それあ綺麗な死に顔らしいよ」
誰かが言っている。
武馬はたった二度三度会ったきりの、明子に似たえい子の美しい頬を、切れ長の眼を思い出した。
“ほんの昨夜に、親父があんなことを言ったのに”
と思った。
昨夜の明子の顔がまた眼の前に浮んでいた。
とり込みを察して武馬はきびすを返した。
紫雨お師匠さんは出かけて居なかった。
達之助は出先から戻って明日の帰りの仕度を始めている。
「どうしたんだ」
武馬の顔を見て達之助が訊いた。
「『川北』の、明子さんのお母さんが自殺したんです。警察に行く前に、薬を飲んで」
バッグにつめかけていた紙包みを達之助はゆっくりと元に置いた。
「死んだのか」
言ったまま長い間武馬の眼を見ていた。
「そうか、あの人は女は自分で死んだか」
もう一度、納得なっとくしたように頷きながら達之助はくり返して言った。

それきり黙ったまま達之助は鞄のつめものをすすめていった。武馬はただぼんやるとそれを眺めていた。
整理し終わったガッグを横に置くと、
「明子さんもこれからが大変だな」
達之助は言う。
「店は姉さんの香世がやるんでしょう」
「ふむ」
言っただけで眼を上げて窓の外を眺める。
「けどなんで死んだりしたんだろう。死ななくたっていいのに」
武馬は言ったが達之助は黙ったままでいる。しかし怒っているような眼だ。
「あの姉妹きょうだいもこれからなにかがある。力になってやれ。お前に出来ることがあれば」
言われて武馬は頷く。言われなくてもそのつもりではいる。しかし何が起こるかは武馬にはわかりはしない。明子になんて言って慰めていいか、それだってわかりはしなかった。
2022/05/01
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