~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-63)
紫雨は夜遅くなって帰って来た。
女中に塩をまかせながら、
「それあ綺麗な死顔だったよ」
彼女も言った。
「新聞屋がはえみたいに集まって来たんでね、私がみんな追っ払ってやった」
「それはいいことをした」
達之助が言う。
「みんんはどうでした。明子さんたちは?」
武馬は訊いた。
「あの香世さんが随分しっかりしていたよ。それあそうだ、あの家の新しい主人という訳だからね。それにしても香世さんはあんなことが起き上がるのを前から心じゃ用意みたいだったよ。私の眼をかすめて上がり込んだ新聞記者にも、動ぜずに淡々としたくらいの話っぷりだった」
達之助は黙って頷いていた。
「明子さんは?」
「可哀想に真っ青な顔をして余りものを言わなかった。でもあの姉妹なら後をなんとかもっていくだろう。あんたも何かと力になっておやりよ。これも因縁だよ」
「うむ、因縁だ」
達之助も言った。

翌日の午前に神戸へ帰る予定が、
「お前が世話になって知り合った縁だ。今夜の通夜つやに出てから帰ろう」
言って達之助は出発を延ばした。
日が暮れて武馬は達之助と一緒に「川北」へ出かけた。いつものように小路には自動車が連なっていたが、矢張り「川北」の周りだけに沈んだ空気がある。
玄関にはきものが混んでいた。しめやかだが帳場から廊下への人のいき来がせわしない。
女中に案内されて中に入った。
奥の棟の一部屋にひつぎが置かれてあった。その前に香世と明子が坐っている。親戚しんせきだろうか喪服もふく を着た三、四人がその後で頭を寄せて何か話し合っている。
明子は何かで感じたように顔を上げ入って来た武馬を迎えた。眼がいき合った時、あ個々は固くかすかに微笑わらいながら問い正すような眼で武馬と達之助を見つめた。
武馬には矢張りその微笑はいたいたしいものに見えた。
目礼して前を過ぎると二人は葬壇そうだんの前にひざを置いて写真の添えられた柩を仰ぎながら焼香しょうこうした。
達之助は長いくらいの間、置かれた写真を見つめていた。えい子の写真は華やかだが何処かしんにものさみしげな微笑を浮かべて武馬が曾て見た時よりももっと若く見える。日頃の明子にますます似て見えた。
焼香から退さがると明子に、
「今夜向うへ帰りますが、お聞きしたのでお参りさせて頂きました」
達之助は頭を下げる。明子が紹介する香世に向かい直すと、
「明子さんにお世話になっております武馬の父です。どうもこの度は ──」
頭を垂れた。丁寧に手をついて礼を返す香世を写真と同じように長いくらいの間迎えるよう、達之助は見つめていた。
「どうかくれぐれもお気を落されないように。いたらぬ伜ですが、彼にも出来ることがあれば何でもお手伝いさせて下さい」
「有りがとうございます」
眼を見合わせたまま低く細声で香世は答える。
「これからはどうか御姉妹で心を合わせて頑張られますように」
覗き込むような眼で達之助は言った。
横合いからそれを眺めながら、武馬はふと自分で得体の知れぬ妙な錯覚を覚えるような気がしていた。それを確かめるように武馬はその父と香世を見守っていた。
ふと視線を感じて顔を巡らした。自分と同じような眼で、明子が姉と達之助とそして武馬を見比べて見守っていた。
敷居際でもう一度、達之助は彼女たちに包むような微笑で頭を下げた。
明子が玄関まで送って来た。
「気を落とさないで、何かあったら言ってくれ」
武馬は言った。
「ありがとう」
言いながら明子は何故かまた問うような眼で武馬に微笑わらいかけた。
「無理せず、お姉さんと交替で寝た方がいい」
達之助に言われ、驚いたような眼で見返すと、
「はい」
答えて素直に明子は頷いた。
2022/05/01
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