~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-66)
矢内原やないばら公園まで行ったところで和久が追いすがった。
「どうも弱った」
二人になると余計具合が悪く、言訳みたいに武馬は言った。
「弱るこたあないさ」
「ぼやぼやするなか」
「その通りだよ」
「今村の奴が旨いことを言ったが、頃としては今こそまさにタイミングだね」
「──── ?]
「ぼやぼやするなよ。彼女は今寂しい。心細い。おふくろさんが死んで彼女の持っていた末娘の自信みたいなものがゆらいでいるかも知れない。こんな時にだぞ、なにかひと言、心底彼女が頼りになれるようなことを言ってやったか」
「どんな?」
「どんなって? そんなことは自分で考えろ。じれったいな。喧嘩と違ってこれは手伝えないよ。俺に手伝わして見ろ、後でどんな事になるか知らんぞ」
また半分真顔で和久は言う。
「俺に出来る事があれば、なんでもやるがって言ったんだ」
「ふむ、ちょっと月並みだが言わんよりまあいい」
「そうか!」
「いや、しかしまだたらない。それだけじゃ一向に印象的でないな。取り込みの時なら出入りの魚屋でも同じようなことを言うぜ」
武馬は黙り込んで空を仰いだ。
「よせよせ、冗談だ、つまらんことを考えなくたって大丈夫だよ。そんなことより頼みがあるんだ。前に言った例の後目相続の式な。あれが明々後日しあさってにあるんだ。お父さんが帰られたのなら、君だけでも是非頼む。辰さん以下みんなの頼みでもある。坂木父子は和久組にとっちゃこの上なく縁起のいい人間なんだ」
「しかし、なんか特別のことをするのかい」
「いや大したこたあない。ただ俺の、なんて言うかな、そう後見みたいな顔で坐っててくれりゃいい」
「そりゃ行く気じゃいたけど、後見役って柄じゃない」
「大丈夫だ」
和久は大きく頷いて見せる。
「俺、着てくものは学生御福学生服しか持ってないよ」
「それで結構」
「明々後日だな」
家の者に迎えに行かせるから」
「そんな必要はないよ」
「いいんだ。君は和久組じゃ俺よりも偉そうな顔をしてくれていいよ。みんなそう思ってる」
横浜行きの前の日、式の用意があってか和久は学校に姿を見せなかった。代わりに明子が登校していた。
武馬は昼食の後、午後の授業の教室にいく途中の校庭で彼女と顔を合わした。取り込みの疲れが残ってか顔色がやつれて見える。それでも武馬を認めた明子は微笑して先日の礼を言った。
「落着いた」
「ええ家の中はね。でも段々他のことでいろいろなことがありそうなの。これからよ」
「そうだろうな。普通の家みたいにはいかないだろう」
「思いがけないことがいろいろ出て来るわ」
明子は うかが うような眼で笑って見せた。
「放課後お暇?」
「うん、一寸ラグビー部のやつに用事があるんだけど。でもそっちはいつでもいいんだ」
「ラグビーをおやりになるの」
「と思ってるんだけど。超人先生に言われたよ ──」
「ことを起す代わりにラグビーをやれって?」
「知ってるの」
「誰かがそう言いそうよ」
明子は笑った。
「僕に何か用?」
「ええ」
答える代わりに明子は武馬の眼を見つめて微笑して見せた。その眼は真剣に見えた。
武馬は来たような気がして胸を張った。
「僕に出来ることならなんでもやる」
「そんなことじゃないの
「それじゃ一体何なんだい?」
訊いたが明子は微笑しただけで、
「授業が終わったらここら辺でお待ちしてるわ」
もう一度よく覗くような眼で笑うと建物の方へ立ち去った。
2022/05/02
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