~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-67)
武馬の授業は時間少し前に終わった。明子が受けている東洋史の授業の教室はまだしんとしている。
授業が終わる前に別の方の用事を足しておこうと武馬は校舎を出てラグビー部の部屋のある建物の方へ駈けて行った。
部屋の扉は開けっぱなしになっていて、中で何人かの学生がもう練習着に着替えている。スパイクをつけた誰かがロッカーに向かってボールを立てて爪先でしきりに蹴りつける。その度に鉄の扉が音を立てて鳴り、何か怒鳴り合うようにして話ながらみんなが着替えている狭い部屋にはもう砂ぼこりがまい上がり、煙草の煙と混ざり合って部屋自体がルーズスクラムの如き様子を呈している。
何か冗談を言い合いやり返した相手に誰かがタックルの真似で飛びかかり抱きつくと、
「や、やめてくれ気味が悪い! 俺にあそんな趣味はねえんだ」
すっ頓狂とんきょうな声が上り、みんなが笑った。
武馬はその声で彼に会いに来た二年生の森がそこに居るのを知った。
「森さん居ますか」
「おい森、友だちが来たぞ」
「なんでえ」
と森が顔を出す。最近の練習でやったか、おでこに新しいすり傷が出来てそれに赤チンがぬってあった。
「よお、君かあ」
「ええ、その ──」
彼が言う前に、
「入るのか、入りぬ来たのか、そうかあそいつあよかった。おい、竹島さん、竹さん」
「なんだいやけに騒々しいな」
「こいつです。僕の言ってた、例のフランス人と横浜の大喧嘩、いや、そんなことはどうでもいい、僕の言っていたハーフバックに出来る男」
「ああ君か。僕が主将キャプテンの竹島だ。君、本当にやる気あるの」
「やれよ、やってくれよ、君ならすぐにでも選手チャンになれる」
「それはわからんよ」
「それはわかりません」
主将と武馬が一緒に言った。
「君、どうしてラクビーをやる気になったの?」
主将が言う。
「僕に、何かスポーツが必要なように思えたからです」
「喧嘩封じかね?」
「そうそう」
森が言う。
「君のことは超人さんから聞いて知っている。僕ああの人のゼミナールなんだ」
竹島主将は笑って言った。
「しかし、それだけじゃありません」
「そうだろう。スポーツをそれだけのことに考えたら間違いだよ。喧嘩封じも人生修行の一つだろうさ。しかし同じスポーツをやるんなら僕らと一緒にもっともっと他の修行もやっていこうよ」
武馬は頷いた。が、主将の横でにやにや笑っている森が気になった。自分に好意をもっているらしいのはかるが、何か少し一人合点されているようでなんとなく心外なところがある。
「しかし、僕あ、そんなに喧嘩好きなんじゃないんです。たまたまそんなことになっただけで」
「いいよいいよ。俺たちあ君をつるるし上げたりせんよ」
森が言う。
「そうじゃない。どうもお前。いや君が僕のことを勘違いしている」
「何でもいいさ。とにかくこいつあ荒い商売だぜ」
言うと足元に転がった楕円形だえんけいのボールを廊下に向かって蹴飛ばした。
「この野郎!」
ボールのはねかえった向いの部屋の中で声が怒鳴った。
「いい気持ちで暴れられるぜ。一人でやるハイジャンみたいにはいかないよ。けどとにかく君の持っているそのスプリントは絶対に武器だ」
「期待してるよ」
主将も言う。
「今日から練習をやってけよ。靴もジャージも貸してやる」
「いや、今日は駄目なんです。そのつもりでいたんですが急に用事が出来て」
「このに及んで未練がましいな。何でえ用事は? その内に何よりもこの変ちくりんなボールが好きでたまらなくしてやる」
もう先輩ぶって森がどやした。
「明日からやらせて頂きます。練習の時間は石松さんから聞きます」
武馬は頭を下げて部屋を飛び出した。
「あいつ! 俺の仇名あだなを知ってやがる」
ずっと前自分で紹介している癖に後で森が怒鳴ってみんなが笑っていた。
なんとなく、また新しい気持のいい仲間が出来そうな気がしながら武馬は校庭の方へ歩いて行った。修業の鐘が鳴っていた。
2022/05/02
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