~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-68)
約束通り先刻さっき会った木の下へ明子はやって来た。
「用事って、帰りながら聞いてもいいの。それともどこかお茶飲みにいく?」
「喫茶店なんか駄目、どこか人の居ないような所がいいわ」
武馬はどきんとした。顔へ血が上って来そうな感じだ。それでいながら、
“困ったことになりそうだ!”
と思った。
しかし思ってみたが、もし明子が武馬が感じた、と言うより一瞬想像したようなことを言うのんら言うのなら、自分で、あんな言い方はしないだろう。もしそうだとしても、全体の状況としてはあの日和久を送った帰り二人だけで赤坂まで歩いて帰った時の方がはるかに適切であったような気がする。
「グラウンドへ行きましょう」
言うと明子は理科の実験室の前を抜けて並木の通りをグラウンドの方へ行きかかる。その背の様子が真剣に見えた。武馬は言われるままその後を追った。
「一体、何なのかな」
気持をほぐしておくように言ってみた。
明子は振り返り、黙ったまま、じっと武馬を見つめる。その眼が武馬よりも緊張して見えた。
「想像が出来て?」
自分に問うように言った。
「出来ないな」
「私にも出来なかったわ。お母さんが死んでからいろんなことが起こりそうだけど、でも私にとってはきっとこれが最大」
グラウンドの見える土手のヘリに並んで腰を下す。遠くでしまのジャージを着た連中が練習している。坐ったが明子は肩を並べず正面から彼を見るように向き直った。
“恋人ってのはこんな恰好では坐らない”
武馬は思った。
“今日はまだ大丈夫だな”
安心もしたが、半分もの足りない。しかし訳がわからぬまま明子の様子には引き込まれる。
「本当に、何なんだい?」
一昨おととい日の夜、私、お母さんのつけていた日記を読んだの」
明子は突然、向き合ったまま、顔を近づけるようにして言った。
「武馬さんのお父さん、以前に母を知っていらしたんだわ」
「親父が?」
「そう。母もそうなんです」
「そうかなあ。そう言われると ──」
そう言われてみると思い当たるような筋がないでもない。
「じゃ親父が発つのを延ばしてお通夜に行ったのも僕には黙ってたがそのためなんだな」
「そうよ」
明子は大事なことを承諾するような眼をして頷いた。
{お母さんの日記にそう書いてあったのかい? けど、親父と君のお母さんは顔を合わしちゃいないし、親父が来てるのだって知らなかった筈だろう」
「そうよ。でも母が武馬さんに初めて会った時のことが書いてあったわ」
「なんんて?」
武馬にはどうも訳がわからない。がそれには答えず、長いくらいに間明子は武馬の顔をみつめていると、やがてゆっくり微笑し、澄んだ遠い眼で言ったのだ。
「私の父の前に、母が愛した人というのは武馬さんのお父さんだったのよ」
「ええ!」
「間違いありません」
「そ、そんな」
「それよりももっと ──」
明子は武馬を落ちつかせ説得しにかかるような眼で言った。
「あなたと私とは、ひょっとしたら兄妹になるところだったかも知れないわ」
「何だって!」
「お姉さんは、あなたのお父さんと母との間に出来た子供なんです。きっとそうなんです。間違いないと思うわ」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ」
「想像出来た?」
「出来やしない。ちょっと待ってくれ、僕にも考えさせてくれ」
「考えることなんかないわ。これを読んでみて」
明子は鞄を開け中から何やら取り出す。
「母の日記です」
薄い上等な和紙でとじられた上品な帳面だった。美しいひらがなで表紙に「にっき」と記されてあった
「ここよ、最初は」
断って印をつけた頁をさしながら、思わず高ぶろうとする声を無理して圧えるように明子は言った。
「見ていいのかい」
頷きながら今はこわばったように明子は微笑した。
武馬は日記帳を受け取った。死んだえい子の性格を語るように、流れて美しい、が明確な書体だ。怖いものを覗くような気持でそれを追った。
『四月×日
長唄、菊芳会、三越劇場。加納先生の新作は感心せず。
夜、就寝前明子が学校で起こした事件の話をする。あの子の正確とは言え、会議にかけらて事の決まるまで何も話さなかったことを叱る。
事件に連座したお友だちの学生たちの中に坂木という名を聞く。神戸出身とか。もしやと思う。
入学式の日に父親と一緒に起したという事件についても、それまであの人の性格らしい。その学生に会いたいと思う。──』
2022/05/03
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