~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-69)
「ふーん。なるほど」
「次はここよ」
明子が手を延ばして頁をくった。
五月×日
── 明子がお友だちの坂木さんを連れて来た。乃木坂のお師匠さんの家に下宿するとか。私の思惑おもわくどおりだった。眼と眉の辺りがそのままだ。明子が知る由もない。そして香世かよも。因縁というものであろうか。両親の噂が出る。あの人も健在とか。坂木さんを眼の前に見ていると私には逆にあの頃が決して遠いものには感じられない。坂木さんが明子のお友だちとして近くに住んで、私にもあの人と再開の機会もあろうが、それは一体私にとってどういうことなのだろうか。そして香世にとっても。あるいはさけるべきことかもしれない。しかしあの時二人には互いにその出会いが遅すぎたものに感じられた。しかし今、ああして坂木さんの眼の辺りに見て見るとあの時私の胸にあったあの時のきりない悔いのようなものがようやく消えていくのを感じる。明子のお友だちとしてもよさそうな青年だ。──
「うーん」
と思わず武馬はうなった。
「その日、何故だか母が一晩中馬鹿に機嫌きげんがよかったのを覚えてるわ」
「── 君とお姉さんとはいくつ違い?」
「四つ」
「すると親父がおふくろに会う大分前だ」
明子は眼を伏せた。
「いや、僕はそんなことで親父をなじったりする気は毛頭ないよ。もし、そうだとしたら ──」
「そうだとしたら?」
「── そうだとしたら、矢張り、いいことじゃないか。僕はそう思う」
明子は問うような眼で黙って頷いた。二人は黙って見つめ合い、次いでゆっくり眼を離し合うと同じようにグラウンドの方を眺めた。
「そうなのか ──」
歎息のように武馬は言った。
こうなってみると、いろいろ想い起こしてみてなるほど思い当たるところばかりだ。達之助について想い起すことがらを、明子の言葉と日記を通して、ひとつひとつ納得して胸にしまい込むいことが出来る。
第一に、入学式の日、まだ名も知らぬいきすがりの明子を見て武馬より達之助の方が綺麗だと言い、なんだか見たことのあるような娘だと言ったではないか。明子とえい子は輪郭こそ違え、眼鼻立ちから他にすべて実によく似ていた。それに、初めて紹介された香世を見て武馬もまた同じようにどこかで見たような気がしたことがある。
酔って明子に幾度も念を押すようにえい子を助けて孝行しろっと言った達之助も、えい子の死を武馬から聞かされて言葉短く頷いた達之助のあの時の表情、そして通夜の晩に武馬が感じたものすべてが符合しているように思えた。
「このこと、お姉さんに話した?」
「いえ、まだ」
「どうして? いや、それならどうしたらいいかな」
「私ふとしたことでお母さんの大切なものの隠し場所を知ってたの。箪笥たんすの台の中に作ってある小さな隠し引き出し。前に検察庁があのことで捜査した時も箪笥の着物の間まで調べたけれどそこだけはわからなかったわ。姉さんが挨拶廻りに出ている間に私一人で開けてみたの。その中にこれもあったわ。そしてこれも」
2022/05/04
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