~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-70)
明子はもう一つの紙包みを鞄から出して見せた。皮の箱の中に美事な珊瑚さんごのかんざしが入っている。せた金文字のアルファベットでシンガポールの知名と店の名があり、その上に墨でただ「君緒きみお様、坂木」と、あった。
「君緒というのは、その頃の母の名です」
「親父が、船で買って送ったんだ」
武馬はかんざしを手にとってみた。一本のかんざしながら、それはある量感をもって彼の掌の内に感じられた。
「そうか、そうだったのか」
改めて本当にただそう思った。思いながら武馬は段々妙にくすぐったいような気持になった。それは、決して不愉快な気持ちではなかった。
「なんだか、なんだか古い芝居みたいだな」
丁寧にかんざしを箱に収め返した。
「君はこのことで傷ついた?」
今度は武馬が覗き込んだ。
「男と、女は違うわ。
明子は首を横に振ると、初めていつものように笑った。
「驚いた、全く。確かに君の思った通りのことがあったんだ。でも、それはそれでいいんだ。僕はそう思う。少なくとも僕はこのことでどうつまずきもしない。君だってそうだろう。これあ僕らの親だけどもある意味じゃ僕ら自身とは他人の人間の過去の歴史だよ」
明子は頷いた。
「でもお姉さんは違うわ」
「それはそうだ。どうするつもり?」
「お姉さんはまだ知らないでいるの。でもいつかは知るべきだと思う。その方がお姉さんだって幸せでしょう。母は死ぬ前に、その隠し引き出しの中を整理して死んだようなの。でもこの日記は遺していった。いつか、私たちにそのことを知らせておきたかったんでしょう」
「それはそうだろう」
「でも、お姉さんにはもう少ししてからにするわ。私はこうしてられるけど、お姉さんは後のことでそりゃ大変なの。もう少し落ちついた時に教えてあげるつもりでいるの。その時はあなたも必ず来て頂だい」
「僕が?」
「そうよ」
「姉弟の名のりか。でも冗談でなく、僕あこんなことで君と血のつながった兄妹でなくて助かった。い、いや、そうでなくて良かった」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃ ──」
明子は気づいたように笑いかけた。頬がそまりかかったが彼女はうつ向きはしなかった。
「親父が知ったらどうだろう ──」
土手の芝生に寝ころびながら武馬は考えた。
「驚くだろうな、慌てるかな。でも僕には段々大人になれなんて言ってた。どっちにしても手紙じゃなく、夏休み帰った時にじかに言って驚かしてやろう」

いつの間にか練習がグラウンドのこちたに移り、蹴られてれたボールが武馬の足元まで転がって来た。
武馬は駈け出していき、取りに来る男に向かって力一杯ボールを蹴返した。ボールは全然見当違いの方へ飛んで行ってしまった。
「畜生、何処に向かって蹴り ──、あ、お前じゃねえか、そんなところで何してやがんだ、この野郎!」
顔中、汗と泥だらけにした森が怒鳴っていた。
武馬は何故か言われた通りそのまま駈けて行ってスクラムを組みボールを力一杯蹴飛ばしてやりたいような気持だった。
2022/05/05
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