~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-76)
後見の役目も終わったし武馬はこれでもう帰ろうかと思った。体に合った、とは言いながら着なれなぬ紋つきなど着て見知らぬ連中を前に坐っているのはなんとしても気骨きぼねが折れた。
とにかくこの紋つきを脱いでしまおうと奥の部屋に戻ったところへ辰さんが慌てて呼びに来た。
「なにしてらっしゃるんで?」
「やあ、もう帰ろうかと思って、役目も終わったしさ。後の宴会なんて僕には場違いだ」
「とんでもねえ。大事な後見がいまくなっちゃ形になりません。その内歌の一つでも出して下さい」
「冗談じゃないよ。演説をさせられた後今度は歌かい」
「それよりそれより、辰川の大親分が是非坂木さんと話したいとおっしゃるんで」
「辰川さんが、弱ったな」
「帰ることあないでしょう。大親分に筋を通じとくのあ先にいっていろいろお為ですぜ、坂木さんが将来大臣大将になった時、大将はもういねえが、とにかくためになる人です」
「そうかねえ」
「並みの親分と違う。日本の黒幕の黒幕って人ですぜ」
せきたてられて元の座敷に戻った。さっきの足のしびれがまだ直っていない。辰さんが大親分の前まで手を引くようにして武馬を連れて行った。和久が先に辰川の前に坐っている。腰をずらして和久は自分の上手に武馬を坐らせる。辰さんがその後の方にひかえた。「「はじめまして、坂木武馬です」
「やあやあ」
と厚くて重そうな眼蓋まぶたを押し上げるようにして大親分は笑った。
「あんたも珍しい友だちを持ったものだね」
「はあ、まあそうです。和久のお蔭で今日生まれて初めて紋つきを着せられました」
「あははは」
と辰川は声をたてて笑う。
「いずれにしてもあんた方を見ていると頼もしいな。私の周りには年寄りの付き合いばかりが多くてね、新代と言いあんたと言い、この新しい付き合いで私も若返りたいもんだ。失礼だが、ひとつお近づきに」
辰川は武馬に盃をさした。
座敷中のもんなが見ていた。武馬のさし返した盃を辰川は両手で受け取った。
「体がけるのは仕方がないが、人間てものは気持だけは老けたくないな。体より頭の方が老けてしまったような人間ばかりが世の中を動かすからろくなことはない」
武馬も和久も頷いた。
「私なんぞがあんたたちにはなむけするような言葉はなんにもない。ただなんて言うかな、今のまま、そのまま図太く真直ぐに延びてもらいたいものだな。実はね、私の三男があんた方と同じ学校にいた ──」
「へえ!」
「変り者ですね ──」
重そうな目蓋の蔭で辰川は急に遠い眼差まなざしになった。
「新代と同じでね、家業が嫌いで家を飛び出したっきり自分一人で大学にまでいった。私といさかいをする度あいつもあんたたちと同じようなことを言って私をめたものだな。確かにその頃の私あ自分で今思ってもよろしくなかった」
「それでその人は?」
「動物が好きでね、大学ではそんな方の学問をやってたが卒業してすぐ戦争で南方へいって死にました。向うからたった一度南方の動物の話を書いた長い手紙をよこしただけでね。その手紙が戦没学生の手紙を集めた本にも出ております。私あ今でもそれを時々読み直して見るがね、伜だけじゃなし他の若い人もみんながあの時は真面目まじめに国の将来、人間の先き先きについて考えていた。いながらそれをどうしよういもなく死んでいった。あの若い者たちの考えをそのまま通してやれば人の世の中はどれほど良くなっておったかわかりゃせん」
その一瞬だけ、鷹揚おうような辰川の顔に骨を噛むような表情が過ぎた。
2022/05/09
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